堕ちるも沈まない女 『ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2』


 映画でも小説でも、「堕ちていく女」の話は、「堕ちていく男」の話のそれより多いような気がするのは気のせいだろうか?
 ラース・フォン・トリアーの新作「ニンフォマニアック」はvol.1とvol.2からなる、合わせて4時間の大作である。性に奔放な女性:ジョー(シャルロット・ゲンズブール)は、酷い怪我を負った状態で道端に倒れている所を、通りがかった男:セリグマン(ステラン・スカルスガルド)に救われる。男は女を連れ帰り、女は男の介抱の傍ら「何故私がこんな目に遭わなければならなかったか?」と、その顛末を語り始める。まさに「堕ちていく女」の定型を体現しているかのような導入である。
 以前、「ラスト、コーション」を鑑賞したとき、「セックスは個人のブラックボックス的な最上位レイヤー」というような感想を書いたが、その「最上位レイヤー」を見ず知らずの他人に明け透けに語ってしまうということは、ある意味で無防備、またある意味では善人である。何人もの男と情事を重ねたと告白するジョーに対し、偏見を持たないセリグマンはその私設図書館たる膨大な知識を用いて「興味深い」「それは過去のこうした事象と重ねることができる」と決して否定しようとはしない(まぁ大方の予想通り彼はvol.2で判明する「あること」を黙っているのだが)。

 こうして限りなく正直な告白者と、限りなく偏見のない聞き手により、様々なシチュエイションの(幾つかは笑いをこらえきれないような)セックスコントが綴られていく前編(vol.1)と、性的不能に陥ってしまったジョーが如何にしてそれを取り戻したか、それにより生じる因果を巡り、まるでメロドラマのような展開を見せる後編(vol.2)、というのが、この「ニンフォマニアック:二部作」のだいたいの構造となっている。
 ちょうど「vol.2」を観終った翌日、トリュフォー映画祭で上映されていた「私のように美しい娘」を観る機会があったのだが、これが偶然にも「ニンフォマニアック」と同じような構造を持っている映画だったので興味深かった。

 フランソワ・トリュフォー、1972年の監督作「私のように美しい娘」は、女性の犯罪心理を研究する大学教授:スタニスラス(アンドレ・デュソリエ)が、ある囚人の女性:カミーユ(ベルナデット・ラフォン)にインタビューをするため、刑務所に通いつめる形で進行する。カミーユの男性遍歴をスラップスティックに戯画化し、艶物的なコメディとして「堕ちていく女」の悲劇性を緩和しているようにも思える。
 この「私のように美しい娘」のカミーユだけでなく、トリアーの出世作となった「奇跡の海」や、溝口健二の「浪華悲歌」でもマックス・オフェルスの「歴史は女で作られる」でも中島哲也の「嫌われ松子の一生」でもいいが、「堕ちていく女」の定型として、苦境を切り抜けるために「性を武器にする/せざるを得なくなる」という展開があるように思う。
 徹底的に冷めていて厭世的で「人間の特性は偽善」と切って捨てるジョーの場合は、「堕ちていく」過程で更に男に頼ったり自暴自棄になるではなく、「社会的適合性がない私は、裏稼業にでも就くしかない」と割り切って、新たな一歩を自ら踏み出す。その辺り、「ニンフォマニアック」に「堕ちていく女」の定型を打ち破る新しい何某かがあるように思える。
 「vol.2」の終盤には、その性に対する真摯さと奔放さゆえ、手放すことになってしまった息子との関係を、裏稼業に誘い込んだ若い娘に見出し、擬似親子/恋人のような関係を築いたりもする。更に成長したこの若い娘による「親殺し」のような展開も待ち受けていたりして、二部作は終結に向かって前記した「因果をめぐるメロドラマ」の様相を呈してくる。
 そして最後に待ち受ける、あの落語のようなオチ。賛否が分かれそうなところである。だが、男女の関係において、例えば四時間もかけた有意義な議論が一瞬にして崩壊するような場面を、おそらくは男性より女性の方が多く体験しているような気がするので、その徒労感を体感することができただけでも、二度に分けて劇場に通った甲斐はあったように思う。タイトルや監督の名前で拒否感を示す人もいるだろうが、是非ここは多くの女性の感想を聞いてみたいものである。

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