ファースター・プッシーキャット 蹴る!殴る! 〜デス・プルーフ〜

「デス・プルーフ in グラインドハウス」を観ました(@TOHOシネマズ横浜)

クエンティン・タランティーノの作品を語るときに、それがキル・ビル以前であるのか「キル・ビル」以後であるのか、というのは結構重要なポイントのような気がして、その答えをこの新作「デス・プルーフ」に見たような気がしました。
レザボア・ドッグス」「パルプ・フィクション」「ジャッキー・ブラウンという3作品は、(それぞれ差異はあれど)言ってしまえば普通の映画で、映画好きの青年が、自分の理想の映画という枠に押し込んだ、いわば優等生的作品とも言う事が出来る。「レザボア」のジョーの言葉を借りれば「マイウェイ」をガシガシ進みつつも「ハイウェイ」も意識していて、言葉を変えればそれはおそらく「作家性」なるものではないか、と思うのです
ところが、タランティーノという映画作家の得体の知れなさを、2003年の秋、私は否応無しに味わう事となりました。「キル・ビルvol.1」です。この作品では、モチーフとされている既存の映画の様々な要素が主張をするあまり、前3作品で築き上げてきた彼の作風というものが後退しているように思えました。しかし、そこにオリジナリティがないのか?と問われれば、そこにあるのは紛れもなくクエンティン・タランティーノという男が作り出した世界であり、既存のパーツの上に築き上げた「新たな地平」を提示していたような気がします。
コンピュータのプログラムは、指示の羅列であるソースコードによって形成されています。ソースコードには既存のコードもあれば、プログラマが新たに書き起こすコードもある。「キル・ビル」という映画を、「その大半が既存のコード(カンフー、ホラー、マカロニウェスタン、仁侠映画など)によって書かれていて、そこにタランティーノが、彼特有のコード(自身の女性観、独特の話術など)を新たに書き起こして加え、完成したプログラム」として考える。極めてイビツな二部作「キル・ビルvol.1&2」は、映画史における新たなプログラムだったのではないか?

今回の「デス・プルーフ」における既存のコード。それは、「スラッシャーもの」「カーアクションもの」「ラス・メイヤーもの」、そしてシメはやはり「カンフー」だったりします。これら既存のコードに、タランティーノのオリジナルのコードである「無駄話(もうこれすら既存という感じもありますが)」「足フェチ」などというコードを加え、完成したプログラムは、やはり形容しがたいイビツさで、しかしながらもうどこを切ってもタランティーノの映画としか言いようがない。およそ一緒に居合わせる事がないであろう要素を組み合わせ、プログラムを走らせた時に生じる可能性のあるバグは、彼のコーディングスキル(それは演出だったり、編集だったり、音楽や小物の使い方だったり)によって捻じ伏せてしまう。
「THE END」という文字がスクリーンに現れた瞬間の、言いようもない多幸感を既に体験した方ならご理解いただけるでしょう。「デス・プルーフ」は、「キル・ビル」に引き続き、クエンティン・タランティーノという男が全く新たな地平に一人で立っているということを再認識できる作品である、ということを。