メモリーズ・オブ・マーダー 『アイリッシュマン』

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 マーティン・スコセッシのフィルモグラフィにおいて、実録犯罪物の礎を築いた作品に「グッドフェローズ」があるが、その中で印象深いシーンがある。

 映画の中盤、主人公ヘンリー・ヒルレイ・リオッタ)が足繁く通うナイトクラブにカメラが入っていくと、彼の仲間が所謂「第四の壁」を越え、カメラ目線で話しかけてきて、そこに「彼は◯◯、こっちは◯◯」という具合にヘンリーのヴォイスオーバーが重なるのだ。

 当然観客は、これはヘンリー目線のショットなのだな、と思い込む。ところが当のヘンリーは、後から毛皮のコートをキャリーで運びながら何事もなかったかのようにフレームインしてくるのだ。そこで「コレはどこに置いとくんだ?」という取り留めのない会話を始めると、シーンの終わりには観客はそもそもこのショットがPOVであったことをもう忘れている。中々奇妙なショットであり、私も何度か観るまでは気付かなかった。

 『アイリッシュマン』も、実は上記の様な「妙な視点」で始まる作品である。

 フランク〝ジ・アイリッシュマン〟シーラン(ロバート・デ・ニーロ)は、現在老人ホームに居住しており、そこにインタビュークルーが訪れて話を聞くようにフランクはカメラ目線で回想を始める、という体裁だ。ところが結局最後までインタビュークルーの姿は映らず、場合によっては全編がシーランの独り言、という体裁のようにも受け取れるだろう。

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小津安二郎のような執拗さ

 この妙な体裁を用いて浮かび上がるのは、フランク・シーラン、ラッセル・バッファリーノ(ジョー・ペシ)、ジミー・ホッファ(アル・パシーノ)という裏社会に生きる男たちの三角関係だが、恐喝や恫喝、時には殺人までも厭わないギャングの世界に生きる人々の「普通の暮らし」ぶりも同様に並列で描く。先に挙げた実録犯罪物のコーナーストーン的な作品となった「グッドフェローズ」と、ラスベガスの栄枯盛衰を見続けた男の一代記「カジノ」でも、スコセッシが扱ってきたテーマである。

 「娘を突き飛ばした雑貨店店主にフランクが暴行」「血塗れのシャツで夜中に帰宅したラッセルに『そのシャツは始末しておくからシャワー浴びてきたら?』と促す妻」あたりは「グッドフェローズ」においてヘンリーの妻が「友人からレイプされそうになったと恋人のヘンリーに告白すると、その友人たちを目の前で銃座で半殺しにする様に興奮してしまった」と対になっている気がするし、ケネディ暗殺の翌日に米国内が半旗で追悼する中、チームスターの本部では半旗を止めさせて通常のように国旗を掲げ直す様は、「カジノ」において親族内のイザコザが原因でFBIに喧嘩を売り続けるサム・ロススティーン(デ・ニーロ)の姿を彷彿とさせる。

 エンジンスタートで爆発する車、見せしめとして爆破されるタクシー等々、ヴィジュアル的にも「グッドフェローズ」「カジノ」に連なるイメージが重複する。

 小津安二郎という人は、一般的には「父が娘を嫁にやるまでの話を延々描き続けた」というイメージがあるだろう。しかし実際に作品を確かめてみれば、同じ「父が娘を嫁にやる話」でも「晩春」と「秋刀魚の味」ではかなりの違いがあるのだが、小津という人が「冠婚葬祭に纏わる悲喜交々」を描き続けた監督であることには間違いはない。「アイリッシュマン」を観てこんな感想を抱くのは自分でも意外だったが、スコセッシもまさに「ギャングの世界の悲喜交々」を更に深いレベルで描こうとしているのではないのか?それが確信に変わったのは、冒頭の「全てが結婚式を中心に回っていた」というフランクのナレーションがあったからでもある。

 もう一点、小津との類似性で「まさか」と思ったのは、序盤、あるクリーニングチェーンを爆破するような仕事を請け負ったフランクが、そのチェーンを事前に偵察するシーンがあるのだが、そこで流れる曲、『裸足の伯爵夫人』の「Bolero」の使い方である。これが小津作品における斎藤高順の雰囲気にそっくりで、少々面食らってしまった。

 スコセッシは「グッドフェローズ」の製作にあたり「『ゴッドファーザー』で神格化されてしまったイタリア系マフィアのイメージを引き摺り下ろす」という旨の発言をしており、「アイリッシュマン」でもその点は一貫している。

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 トニー・プロ(スティーヴン・グレアム)とホッファの諍いは、観ながら「アホか」と声が出そうなほど子供っぽい理由によるモノであり、そこから人殺しにまで発展するという事実は異常としか思えないが、「裏社会」というボーイズクラブでホモソーシャルなゲームに興じてきた男たちにとっては、ゲームを進めるにあたって邪魔を排除=殺人ぐらいのことはなんてことはないのであろう。「グッドフェローズ」制作時にスコセッシは、裏社会界隈の人々の話を聞くにつれ「モラルが完全に欠如しており、そこで成立する世界に興味を持った」といった内容の発言もしており、その「通常のモラルの枠外で生きる人々」というテーマは「アイリッシュマン」でも強調されている。

 一般の市民のモラルと異なる「貴族/上流社会」の日常を執拗に描いた作家で言えば、ルキノ・ヴィスコンティという監督の名前も思い浮かぶ。「秋刀魚の味」「山猫」「アイリッシュマン」、三作に共通するのは「一人残された父親を、カメラは捉え続ける」という終幕である。そのスタイルではなく、テーマの共通性において、小津とヴィスコンティという、敬意を表してやまない二大巨匠に近付いた約三時間半の異色大作が、ネット配信の前提(一部劇場で公開はされたが)で制作されたという事実は、後の映画史を振り返る際にターニングポイントとして語られるのではないだろうか。

The Irishman | Netflix Official Site

「最良の君」という呪い 『キャプテン・マーベル』

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 ベスト・ヴァージョン・オブ・ユアセルフ。最良の君を見せてくれ。本作の中で、ある人物が象徴的に何度か繰り返す言葉である。
 最良の君を見せてくれ。男性である自分は、こういった言葉を他の、特に年上の男性などからかけられたことがあるだろうか?せいぜい部活で根性論第一主義の顧問に言われたことがあるかな、程度の記憶しかない。ところが「キャプテン・マーベル」を観てみると、この言葉は男性より寧ろ女性の方が、様々な場面でかけられる機会が多い言葉なのではないか?そんなことを考えた。
 まず他人が定義する「最低」や「最高」の判定ほど、あやふやな基準もない。抑圧を好む人間ほど、こうした「曖昧な定義」を用いて、既に相応なスキルを持ち合わせる人間に対し、「まだまだ君のベストなヴァージョンではない」と曖昧な評価を下すことで、自分を優位に置き、そしてその人間を支配下に置くこともできる。
 「キャプテン・マーベル」は、持てるポテンシャルを存分に発揮できるのにもかかわらず、恣意的な抑圧により力を抑制され続ける一人の女性が、最後にはそこから解き放たれ、一隻や二隻の戦艦なら鼻歌交じりに爆破してみせる、そんな物語である。

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 未熟な自分を導いてくれる言葉だと思っていたが、それは単に自分を縛り付けコントロール下に置くための呪いの言葉でしかなかった。こうした反転が「人を見た目で判断してはならない」「所属する組織とはいえ常に疑問を持つべきである」といった多重の構造と共に巧妙に配置され、物語は「ヒドゥン」や「エイリアン・ネイション」といった、80年代後半に量産された異星間バディ物の体裁を借り、時にオフビートに展開する。過去の記憶を失っていたヴィァース/キャロル・ダンバース/キャプテン・マーベルブリー・ラーソン)が全てを理解し、覚醒し、宇宙空間で歓喜の雄叫びを上げる時、理不尽な抑圧を経験したことのある全ての人間は、共に快哉を叫ぶであろう。
 劇中、キャロルは笑うこともあるが、通りすがりの男がまるで挨拶とワンセットであるかのような「笑えよ」という無自覚な抑圧には笑わない。当たり前の話だが、可笑しいか可笑しくないかは彼女が決めるのだ。

 

2018年公開作品ベスト10

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1. 『寝ても覚めても』

2. 『ファントム・スレッド』

3. 『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』

4. 『1987、ある闘いの真実』

5. 『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』


1.寝ても覚めても
 鑑賞後に原作小説も読んだが、原作にあった枝葉はバッサリと切り落とすが映画用には新たな枝葉が生えており、骨格は同じながらも全く別の話のように感じた。同様のアプローチでテッド・チャンの短編を映画化したドゥニ・ヴィルヌーヴの「メッセージ」を思い出したが、どちらも映画の方が好みである。


2.ファントム・スレッド
 往年のメロドラマのようであり、そうしたスタイルでは全く描かれなかった男と女の支配/被支配の関係を描いている。


3.ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ
 前作ではサブエピソードとしてしか描かれなかった、マット(ジョシュ・ブローリン)とアレハンドロ(ベニシオ・デル・トロ)の蜜月が記されており、そしてそれは不幸な形で終焉を迎え、三作目への期待が最高潮に達したところで物語も終わる。


4.1987、ある闘いの真実
 どう考えても今の日本人に刺さるのは「ペンタゴン・ペーパーズ」より断然こちらであり「記録は取るなと言ったろ!」という台詞にも象徴されるように、創作物によって本邦の現状の異常さを再認識するのがとても辛い。


5.フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法
 母親ヘイリー(ブリア・ヴィネイト)と子供ムーニー(ブルックリン・キンバリー・プリンス)に纏わる様々なエピソードは、全編それだけでも観ていられるぐらいの楽しい感じではあるのだが、この暮らしを諸手を上げて肯定するのはそれはそれで問題がある。すると終盤にちゃんと反転があり、この辺にニューシネマの影響を感じたりした。東にサフディ兄弟がいれば西にはショーン・ベイカーあり。

 

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6. 『スモールフット』

7. 『イコライザー2』

8. 『BPM ビート・パー・ミニット』

9. 『ブラックパンサー』

10. 『ロープ/戦場の生命線』

 

6.スモールフット
 果たして「移民どもは強盗や殺人を犯すので壁が必要だ」と吠えたり、自分に都合の悪いニュースを「フェイクだ」と逃げる首長が登場しなかったら、こんな作品が作られただろうか?と思えるほどに色々とリンクする部分が多い。この映画の幕引きを「ファンタジーである」と一蹴するのは簡単である。


7.イコライザー
 前作との一番の大きな違いは「もうオバマの時代ではない」、なりふり構わない時代が到来したということ。今作の敵が発する「前とやってたことは同じだろ?」という〝事なかれ主義〟に対する激しい怒りが渦巻いている。早朝の郊外住宅地でマッコールが啖呵を切る場面の異様さが、この手のジャンル映画と本作の決定的な違いである。


8.BPM ビート・パー・ミニット
 フランスという国における、ディベートの歴史とプロテストの歴史の重みを痛感する作品であり、もちろんそれらは全て「公平であれ」という道に通じており、それをまやかしで回避するような奴等には(非暴力での)実力行使も辞さない、そんな当たり前のことを訴えている。個人の物語の延長にある社会運動の話。


9.ブラックパンサー
 物語はああした形で幕を閉じたが、ウンジャダカ/キルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)がワカンダに投げかけた疑問は、マイク・レズニックが「キリンヤガ」で提示したような問題を孕んでおり(⇨参照)、あそこでテラフォーミングされた故郷に移住した人々が陥ったような対立を招くような気もする。続編があれば是非観てみたい。


10.ロープ/戦場の生命線
 戦争の不条理を、間接的にちょっとした事件を主題にして際立たせる、という点で成功している。ベスト10本に入るか入らないか、という小品だとは思うが、あまり知られぬまま埋もれていくには勿体ない、そんな映画。

 以下に次点作品を。
君だけが、僕の世界/マダムのおかしな晩餐会/シュガーラッシュ:オンライン/パッドマン/ロンドンに奇跡を起こした男/輝ける人生テルマ/走れ!T高バスケット部/REVENGE リベンジ負け犬の美学/search/運命は踊る犯罪都市名もなき野良犬の輪舞/バッド・ジーニアス/タリーと私の秘密の時間ウィンド・リバーミッション:インポッシブル フォールアウト/天命の城レディ・バードビューティフル・デイパティ・ケイク$アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー/5パーセントの奇跡/ペンタゴン・ペーパーズ/女は二度決断する/ヴァレリアン/ダウンサイズスリー・ビルボードあなたの旅立ち、綴ります/THE PROMISE 君への誓い/デトロイトローズの秘密の頁/RAW 少女のめざめ/オール・アイズ・オン・ミー

ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』

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最初の悪い男 (新潮クレスト・ブックス)

最初の悪い男 (新潮クレスト・ブックス)

 

  若くはない。43歳はもう若者ではないのだ。

 「最初の悪い男」の主人公:シェリルは43歳。女性に降りかかる性暴力に抗うための護身術の講習会などを行うNPO法人で働いているが、彼女が考案した「護身術とエクササイズの融合した」映像ソフトの売上により、勤め先では歳相応の成功を収めていると言って良い。では私生活はどうか? 勤め先の団体で理事を務めるフィリップという男性に好意を抱いている。フィリップは65歳で、約二回りは歳が離れている。物語はシェリルの恋の行方を追う物なのかとページを進めれば、クリーという若者の闖入により、事態はあらぬ方向に突き進んでいく。
 職場の上司夫妻の娘で20歳。自らのはち切れんばかりの若さを自覚していない若者であるクリーと、各所体毛に白髪が交じり始めている自覚のある中年のシェリルとが、ふとしたきっかけで同居生活を送ることになる。

 完璧に組織化された生活を送り、ヒステリー球という喉の狭窄感、異物感に悩まされているシェリルは、まるで「傍若無人」という四字熟語が大きく書かれたTシャツを着てリビングを行ったり来たりするようなクリーという人物との暮らしを通じて、シェリルの中に様々な変化が訪れる。それはぎこちない会話に端を発し、それが暴力的な取っ組み合いに取って代わり、果ては思いもよらない親密さを交わすまでに発展する。
 「最初の悪い男」では幾つかの〝可能性〟が提示される。

 自分と自分が好意を寄せている男性は、実は遠い昔に結ばれていた王女と王であり、何度目かの転生を経て今の人生でやっと巡り会ったのだという可能性。その男性が孫ほど年の離れた少女と肉体的な関係を結ぼうとしている可能性。ヘテロセクシャルという自認があったはずが同性をセクシャルな目で見てしまっている可能性。それらの可能性はジリジリと彼女を追い詰めていく。

 しかしながら、その〝可能性〟の有無を確認する術は当たって砕けるしかないのだ、というシェリルの選択と行動、がむしゃらな有言実行精神は、通常の私小説の枠組みを大きく超え、読者に勇気を与えてくれる。
 若くして、その若さゆえの特権である「奔放さ」を開放してこなかったり、その機会に恵まれなかったり、それを飼い慣らす術を知らなかった「かつての若者」(しかもそこには老いの実感も希薄なのだ!)は、いよいよ肉体的な衰えが本当に始まろうとしている人生の折り返し地点に立たされた時、いかにしてその衝動と向き合えば良いのだろうか。シェリルとほぼ同年齢であるミランダ・ジュライは、自らが書き上げた初の長編小説の主人公を、圧倒的に肯定してみせる。
 「雨のような拍手喝采
 ジュライは作品中に二度、この言葉を用いている。一度目はメタ的な使い方で、そして二度目は文字通りの祝福として。物語を読み終えた貴方も、きっとその観衆に加わっているはずだ。

ミランダ・ジュライ「いちばんここに似合う人」 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥

手負いのネコと喋るクマ 〜「ザ・フューチャー」と「テッド」の35歳問題〜 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥

ウェルズ・タワー「奪い尽くされ、焼き尽くされ」 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥

 

HOMMヨ - No Past To Love

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 HOMMヨというバンドの存在を知ったのは約2年前のことだったと思う。ツイッターでVo/Gtのニイマリコという人物を知り、そこからバンドにたどり着き、動画を幾つか見て、初めてライヴに足を運んだのが彼女たちが主宰していた「ママズ・タトゥー」というイベントだった(以降、彼女たちのライヴには何度か足を運ぶことになる)。

 HOMMヨのサウンドを、知らない人に「どんな感じのバンド?」と聞かれたとしたら「日本のスリーター・キニーみたいなバンド」などと形容していたのだが、実はアルバム毎にそうした「US/UKインディーロック」的な音像からはどんどん離れていっており、今回、新らしく発売されたアルバムを聴いて、その「形容しがたい」サウンドは更なる進化/深化を遂げているように感じた。

 YouTubeなどに「何でもある」時代になり、過去の邦楽のミュージシャンの動画を見ていると、例えば「この〝力石のテーマ〟を歌うヒデ夕樹という人の感極まり方はまるでジム・モリスンのようだ(参照)」とか「全盛期の安全地帯はミネアポリスファンクのようだ(参照)」とか「アップテンポなブラスロックのようにも聴こえるが決定的に何かが違う杉良太郎参照)」などなど、洋楽の影響はうっすら感じ取ることが出来るのだが結果としてアウトプットされた音が明らかに異彩を放ってしまっているケースは結構あるような気がしていて、それはまた「邦楽っぽさ」とも「昭和歌謡っぽさ」などとも異なるように思われる。もしかしたらこれらが、情報として伝わるのは音源ぐらいしか無かった時代に、その取り込んだ影響がミュージシャン自身の自我と結びついて増幅していった結果、独自な音として表出した「ネット以前の感覚」なのかもしれない。

 HOMMヨのサウンドに関していえば、前々作である「NO IMAGE」ぐらいまでは割と濃厚であったUSオルタナグランジチルドレン的な音像が、それ以降の「cold finger」~EP「LOADED」と、よりヴォーカルであるニイの歌を活かした路線へとシフトしていき、そして今回の「No Past to Love」では、ロック・パンク・ニュー/ノーウェイヴなどなど、様々な表情を見せつつも、ますます形容しがたいというか、そのどれにも当てはまらないような5曲が収録されることになった。

 至らないながらも、その詳細を記してみようと思う。

No Past To Love [SIGMA-001]

No Past To Love [SIGMA-001]

 

1.デラシネ

 「運べや運べ 俺は獣を親に持ち 汚れた雨も 飲み干せる」という歌いだしから圧倒的な世界が広がるが、ニイの言葉の乗せ方の巧みさにも圧倒される(これほどまでに日本語詩を大切にしているロックバンドを、私は知らない)。

2.#0

 軽快なカッティングで始まる朗らかなナンバーだが、「降臨(callin?)救世主」など、ニイの言葉遊びがここでも冴える(この人は本格的にポエトリー/ラップなどをやった方が良いと思う)。

3.fang

 「#0」と同様にカッティングのリフが印象的な曲だが、Ba:みちゃん、Dr:キクイマホの強靭なリズム隊による熱が、クラウト/ノーウェイヴ的に繰り返すシンプルなギターリフの無機質さを際立たせる。「誰もがNOとは言わずにすむ世界」という一説は今年一番心に響いた日本語詩かもしれない。

4.koo koo

 5曲の中では一番スローなナンバーだが、曲調も含め、ニイが敬愛するという故クリス・コーネルに捧げた曲なのではないかと妄想してみる。

5.ノクターン


HOMMヨ / ノクターン 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 MVがあるので参照していただくのが手っ取り早いと思うが、ポップな曲調が1:30あたりからブラストビート風に転調するので唖然とするが、その移行が自然過ぎることにも驚かされる。そんなトリッキーな構造を持つ曲だが、おそらく一番印象に残るのもこの曲であろうから、MVを制作したい理由も頷ける。

 

 「No Past To Love」は、バンドが新たに立ち上げた自主レーベルから発売となっているが、なぜこれほどのバンドがインディから音源を出さなければならないのか?という疑問がまずあり、そしてできることならこの倍ぐらいの曲数の音源を聴きたかった、というのが正直な感想である。多くの音楽好きの人たちに、HOMMヨの新譜が届くように願うばかりである。

LOADED

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cold finger

cold finger

 
NO IMAGE

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ARMY YOU

ARMY YOU

 
witchman

witchman

 

シーツを被ったパトリック・スウェイジ 『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』

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 「新しいアイデアというのは、新しい場所に置かれた古いアイデア」なんだそうである(出展

 『A GHOST STORY』を観て、「死者にはかつての愛する人が見えるが、生者には見ることはできず、そしてお互いに触れることができない」「物には触れることができ、動かすことも壊すこともできる」という作品上のルールが明らかになっていく過程で、「はて、どこかで観たような・・・」と結構な既視感を抱いていたのだが、それは1990年の大ヒット作にあることに気が付いた。

 考えてみれば「ゴースト」だって、それこそ何百回何千回と語られてきた恋人たちの幽霊譚の焼き直しだったはずである。では90年という時代に、どんな新しい場所/器に、古いアイデアが置かれた/盛られたか?と考えてみると、大きく分けてそれは二つあるように思う。一つは「ライチャス・ブラザーズ」であり、もう一つは「ろくろ」であろう(今回は「ゴースト/ニューヨークの幻」の考察ではないので詳細は割愛する)。

 さて、話は戻って『A GHOST STORY』は一体どんな新しい器に古いアイデアを盛り付けたのか?という点だが、これも象徴的なポイントが二つあるように思う。一つは「A24」、もう一つは「ステージド・フォト的な画面構成」である。

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■A24(公式サイト

 A24とは独立系の話題作ばかり手掛ける、現在飛ぶ鳥を落とす勢いの制作会社である。インスタグラムのフォロワーは25万以上。ムーンライト、20センチュリー・ウーマンフロリダ・プロジェクト 真夏の魔法パーティで女の子に話しかけるにはアンダー・ザ・シルバーレイク・・・といった具合に、若者からの支持があり、かつメジャースタジオが尻込みしそうな挑戦的なテーマを扱ったラインナップがならぶ。

 今回の「A GHOST STORY」において、メインヴィジュアルとなる「シーツに黒い目が2つあいたオバケ」という、ある種の子供っぽさはあるが、その反面、攻めの姿勢が感じられるデザインを採用したことも、結果として「A24なら何かやってくれるのでは」といった若者支持層の期待と結びついたのではないかと推測する。

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■ステージド・フォト

 ステージド・フォトとは「登場人物や背景など、被写体に一定の加工を行ない、画面の中にフィクショナルな世界を構築する写真の技法」のことである(出展)。その写真自体が映画の一場面などを想定して象徴的に切り取っている、という風に考えれば、これを映画に用いることはある意味で逆輸入的な技法となるわけだが、デヴィッド・ロバート・ミッチェルの「イット・フォローズ」あたりから、こうした作風を標榜する作品は年々増えつつある。

 「A GHOST STORY」における「画角の丸いスタンダードサイズ」という特徴的な画面に、上記のような手法でアメリカの郊外を「ステージド・フォト」的に収める、という作風は、現代美術におけるビデオインスタレーションのそれにも似ていて、それが作品のアートフィルム的な側面も強調している。アメリカの郊外住宅地を、開拓時代からはるか未来までもを、土地や建築といった観点で切り取るといった手法も、アートフィルム的であり、そして前段に示したように「まさに今のA24!」といった、実験的かつ挑戦的な映画となっていることも確かである。

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 「A GHOST STORY」を斬新に感じるか、「ゴースト」の焼き直しと感じるかは、鑑賞者の映画趣向や映画遍歴に左右されそうだが、A24の歴史にまたもや奇妙な1ページが加わったことは間違いなく、今後も同スタジオから目が離せそうにない。

 

セックス・トリクルダウン『フィフティ・シェイズ』三部作

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 グレイ・エンタープライズCEO:クリスチャン・グレイ(ジェイミー・ドーナン)は、出身大学の学生新聞の取材を受ける。取材当日に社に現れた英文科の学生:アナスタシア・スティール(ダコタ・ジョンソン)は、会話を進め親交を深める内にクリスチャンにある〝素質〟を見抜かれ、ある〝契約〟を結ばないか?と持ちかけられる。それはアナが「従属者(サブミッシブ)」、クリスチャンが「支配者(ドミナント)」となって性交渉をし、その一部始終は決して口外しないという内容。当初は断る気でいたアナだったが、次第にクリスチャンに惹かれていき……

 「フィフティ・シェイズ」シリーズは、上記のように幕を開ける「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」、一作目の終わりの別離から関係修復~プロポーズまでを描く「フィフティ・シェイズ・ダーカー」、そして結婚~ハネムーンに始まり、外部の人間により二人に危険が迫る…というのが現在公開中の「フィフティ・シェイズ・フリード」の三部作である。

 全世界で1億部以上と言われるベストセラーを映画化したトリロジーは、〝マミーポルノ〟などと揶揄されるも、映画版にはこれまで百万回は繰り返されてきたであろう手垢にまみれたロマンスにBDSM(Bondage,Discipline,Sadism & Masochism)という要素を巧妙に配置し、それを求心力に観客の好奇心を煽るというアプローチを取っており、「そりゃ売れるわ」と単純に感心してしまった。

 しかしながら映画三部作は、一作目「~グレイ」でこそ先記のような「ロマンスとSMのマッシュアップ」というコンセプトを成立させていたものの、二作目「~ダーカー」、三作目「~フリード」とシリーズを重ねるごとにBDSMという要素は徐々に前菜か付け合わせ程度の扱いになっていき、どちらかというと手垢にまみれたロマンスの方が主体となっていく。それは何故なのか。

 一作目「~グレイ」のメガホンを取ったのはサム・テイラー・ジョンソンという女性監督である(監督作に若き日のジョン・レノンを描いた「ノーウェア・ボーイ」などがある)。STジョンソンが「~グレイ」で試みたのは、BDSMに基づいたセックスをある種の〝異世界/新世界〟として切り取るというアプローチであったように思う。プレイルームと呼ばれる赤を基調とした荘厳な部屋で、アナとクリスチャンは性行為に耽るのだが、この映画の肝となる重要な幾つかのセックスシーンを、シーマス・マクガーヴェイのカメラが豊かに美しく掬い上げている。そんな中でも印象に残ったのが、「挿入前にコンドームの袋を口で引きちぎるクリスチャン」というショットであり、これをわざわざインサートしたSTジョンソンには、ありふれた性行為の描写〝以上〟のメッセージがあったに違いない。

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 ところが、二作目以降は監督が変更となり、ジェームズ・フォーリーという男性監督が引き継ぐことになる(「摩天楼を夢みて」「NYPD15分署」などで知られる)。二作目以降に明らかなのは、セックスシーンの凡庸さである。日常の延長としてダラダラと始まり、多くの映画で見られたような平凡なカット割りで綴られる、可もなく不可もない性描写。クリスチャンの施すプレイに反応するアナの様々な表情・身体を収めていた「グレイ」とは対照的に、「ダーカー」「フリード」ではクリスチャンの筋骨隆々とした背中や激しく突き動かされる腰などの方が強調される。アナが仕事中にクリスチャンとのセックスのことを思い出してしまう、という編集が「フリード」に見受けられるが、これも個人的には〝如何にもな男性目線のセックスファンタジー〟という感じで何だか鼻白んでしまった。

 サディズム、マゾキズムに役割を割り振った上での性行為は、基本的には暇と財力を持て余した一部の金持ちが、更なる快楽を求めて邁進してきたジャンルのはずである。「フィフティ・シェイズ」三部作にたびたび登場する「プレイルーム」には、その装具や寝具やその他の道具には、ズッシリとした歴史の重みが感じられる(現代上流社会の乱行という側面を描いた「アイズ・ワイド・シャット」という映画もあった)。本来こうした「一部の富を有する者がアクセスできた」SMを、(成人指定ではあるが)娯楽映画の中である象徴として描くことには啓蒙の意味もあるはずである。

 「フィフティ・シェイズ」シリーズは、手垢にまみれたロマンス/シンデレラストーリーとSMプレイとのマッシュアップによって、観客に何を与えただろうか?

 三部作で描かれる様々な道具を用いたセックスは、完璧に再現するには無理がありそうだが、創意工夫次第では庶民でも真似できそうなプレイも多々あるように見受けられた。カップルで映画を鑑賞し、「同じようなことをやってみよう」と実際に試みた人々も、世界中の上映国でカウントすればおそらくとてつもない数になるであろう(多くのプレイは必ずしも挿入を前提としていないので、ヘテロ以外のカップルにも様々な対応が可能である)。大富豪カップルが謳歌する初デートでのヘリ飛行、クルーザーでの航行、豪華絢爛な仮面舞踏会。これらを一般庶民は指をくわえて眺めることしかできないが、だがSMプレイは、一作目でアナが働く街の金物屋にクリスチャンがロープや結束バンドを買いに来たように、日用品でも代用が可能である。

 元々は「トワイライト」の二次創作物として作者のELジェイムズが書き上げたのが「フィフティ・シェイズ」シリーズの発端だそうだ。ウェブでの絶大な支持を得て刊行となるが、作者も支持者も既婚であったり子供を持つ主婦であったりすることから「マミーポルノ」という呼称が与えられたらしい。そのユーモアを自虐的に、肯定的な意味で捉えている人も多いかも知れないが、随分と馬鹿にしたカテゴライズであるようにも思う。

 ここで小説と映画によって蒔かれた種が、後世にどういった形で発芽するのか、あるいはしないのか。人類の「エロ」に関する知的欲求は尽きることがないであろうから、その内に時間の経過が証明してくれるはずである。