2021年公開作品ベスト10

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1.エターナルズ

 「Beautiful,isn’t it?」と女が切り出した言葉から始まる数千年に渡る関係は、男が絞り出す様にやっとの思いで発した「I’m sorry.」という言葉と共に終焉を迎える。

2.NEVER RARELY SOMETIMES ALWAYS(17歳の瞳に映る世界)

 少年/青年の〝数日間の男二人旅〟(そして旅の始まりと終わりでは多かれ少なかれ二人の関係に変化がある)的な作品は、それこそニューシネマの時代ぐらいから色々と綴られてきたと思うが、その〝女の二人旅〟版が満を持して登場。従姉妹という距離感が絶妙である。原題が非常に重要な意味を持つので、何故こういった邦題になったのかは理解に苦しむ。

3.ドライブ・マイ・カー

鑑賞時の感想

4.パワー・オブ・ザ・ドッグ

 メインキャラクター:フィルを演じたベネディクト・カンバーバッチの分析を以下に

「彼は若い頃に燃えるような恋愛を体験したがそれは容認されることも許されることもなく、話すことすらできなかった。その悲劇が彼を有害な男らしさの中に押し込んだんだ」 

ベネディクト・カンバーバッチ、有害な男らしさについて語る「”全男性が悪いわけではない”は言い訳」 | カルチャー | ELLE [エル デジタル]

5. 半島 PENINSULA(新感染半島 ファイナルステージ)

 世界がク・ギョファンという俳優を発見してしまった。

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6. あのこは貴族

 原作未読。第一章が始まる2016年と言えば、嘘と欺瞞で招致を勝ち取った詐欺師が地球の裏側の土管からマリオの格好で出てきた年であり、そこから物語を始めるのは明確な意図があるように思う。五輪に向けて変わり続ける東京は、人生の転機に向け物事が劇的に動き出すも全く実感がわかない華子の心象風景そのものだろう。

7. すばらしき世界

 己に渦巻く激情を飼い慣らすことを憶えてしまった、憶えたというよりはその身体に植え付けられた男の物語は、彼を俯瞰し記録し続けていた別の若い男に託され、その別の男にも漸く激情が渦巻き始めた所で映画は終わる。

8.ローズメイカー 奇跡のバラ

 何の予備知識もなく劇場に足を運ぶと、そこには見知らぬ世界への興味を促す語り口があり、観客を選ばず、感慨と共に映画館を後にする頃には、ほんの少しだけそれ以前とは世界の印象が異なって見える。そんな理想的な映画。

9.羊飼いと風船

 チベットの草原で牧畜を営む家族と、日本の都市に暮らす私とで「一体何が異なり何が同じなのか?」を思う時、特異点と親近感、それぞれが増す内容となっているが、それは差し出す普遍性を監督が確信しているからこそであるように思う。朴訥とスリルが同居する傑作。

10.すべてが変わった日

 描かれているのは「ならず者に日々の暮らしを乗っ取られる恐怖」であり、1966年のノースダコタを舞台に綴られる〝法や倫理が何の意味もなさない〟世界の物語が、2021年の日本に生きている自分にとって、全く他人事には思えなかった。

■総評:

 10本選んでみてから気付いたが、クロエ・ジャオ、エリザ・ヒットマンジェーン・カンピオン、岨手由貴子、西川美和の五人、ちょうど半分が女性監督である。年代も30代から60代まで、作風もSF/ファンタジー、様々なドラマといった具合に多種多様。20102011年のベストを振り返ってみたが、その二年を合わせても女性監督はドリュー・バリモアローラーガールズ・ダイアリー)のヤスミラ・ジュバニッチ(サラエボ、希望の街角)のたった二人であったことを考えれば、ここ数年で状況が一気に変わって来た感じがある様に思う。

 

次点

ただ悪より救いたまえ/グロリア 永遠の青春/天才ヴァイオリニストと消えた旋律/ファイター 北からの挑戦者/モーリタリアン/ビルド・ア・ガール/DUNE 砂の惑星トムボーイサウンド・オブ・メタル/殺人鬼から逃げる夜/モンタナの目撃者/白頭山大噴火/ソボク/アメリカン・ユートピア/グリード/幸せの答え合わせ/ファーザー/約束の宇宙/ロード・オブ・カオス/21ブリッジ/ラーヤと龍の王国/野球少女/ある人質 生還までの398日/ベイビーティース/swallow

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アイウィルフェイスマイフィアー!

皆さま良いお年を!

悲しいフリはもう止めて 『ドライブ・マイ・カー』

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 2020年の年の瀬。新型コロナウイルスが第三波として猛威を奮い始めた頃、私はある海沿いの大学病院で緑内障の手術を受けた。緑内障の手術というのは、一定以上高くなってしまった眼圧がこれ以上高くならないようにする為の〝現状維持〟の手術であることが多い。眼圧が高くなることで視野が失われてゆき、酷ければ失明する可能性もある。そうした結果にならない為に行うものであり、視力/視野が回復する手術ではない。
 チェーホフの代表的な戯曲『ワーニャ伯父さん』には、以下のような台詞がある。

 人生は失われた、もう取り返しがつかない──そんな思いが、昼も夜も、まるで家の悪霊みたいに、ぼくの心をさいなむんだ。

 今から約120年前の、47歳を迎えた中年男の喪失の感覚を、別の喪失の感覚と重ね合わせたのが濱口竜介の新作映画『ドライブ・マイ・カー』である。

■観客のいない演技

 村上春樹の同名短編小説が原作となってはいるが、同作が収録された短編集『女がいない男たち』に併録の『シェラザード』『木野』からもモチーフを拝借して、濱口はほとんどオリジナルに近い新たな『ドライブ・マイ・カー』を作り上げた、という例えの方がしっくり来る様に思う。
 演劇を生業とする夫婦がいた。妻は夫に隠れて共演者と浮気を重ねていた。夫はその事実に気付きながら気付かない〝演技〟を続けた。だが妻は「話がある」と出がけの夫に告げたまま、その晩に還らぬ人となる。簡単に説明するならこんな映画である。
 残された夫:家福(西島秀俊)は、妻:音(霧島れいか)の死から二年後、広島のとある演劇祭に招聘され、演出家として『ワーニャ伯父さん』を手がけることになるが、そのオーディションには妻の浮気相手の若い男:高槻(岡田将生)という俳優も応募していた。ここまでが大体の序盤の見せ場となっている。
 家福は、高槻に対しても、亡き妻:音が彼と逢瀬を重ねていたことを全く察知していなかったかのような〝演技〟をする。原作小説には、妻の浮気に身を焦がしながら以下のような独白をしたりもする。

 でも家福はプロの俳優だった。生身を離れ、演技をまっとうするのが彼の生業だ。そして彼は精いっぱい演技をした。観客のいない演技を。

 演技を生業とするような人間が「僕を深く愛すると同時にごく自然に僕のことを裏切っていた」〝そんな妻の死〟という現実にどう向き合うのか。映画版『ドライブ・マイ・カー』で描かれているのはそうしたテーマであるように思う。

■喪失と獲得 主人と従者

 未然の状態から何かを得る感覚と、今までそこにあることが当然であった物や人を失う感覚があるとして、そうした〝振り〟をするのはどちらが簡単だろうか?私個人の話で言えば、緑内障によって視野のかなりの部分が失われ、もう右目だけで活字を読むことが困難な状態になった。右目が左目の〝添え物〟にでもなったような感覚である。手術の半年前には全く想定していなかった事態だった。そうしたことを考えれば、未然の状態から「何かを得ること」を想像することと、「何かを失うこと」を想像すること、それを用いてその振りをすることは、どちらの演技がより技巧を必要とするだろうか(ここまでで書きそびれたが、劇中の家福もまた、緑内障の進行を予期せぬ形で医者から告げられる)。
 映画の中盤には、演劇祭が家福専属のドライバーとして雇い入れた、みさき(三浦透子)という女性が登場する。後半に明かされることだが、「妻の死」という大きな喪失を抱えた家福と同様、彼女もまたある種の喪失を心に秘めている人物であり、この二人は多くの非・演技状態、いわゆるオフステージの状態を、車内で共有することとなる。二人にとっては、車外の空間は全て〝舞台〟であり、家福の愛車:サーブ900の限られた密室は気心の知れた共演者の控え室的な役割を果たしている(車外は全て舞台、と前記したが、車外で二人が親交を深める印象的なシーンも複数登場する)。

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 予め身を差し出すことが大前提となっている忠実な従者と、その有能な技術に全幅の信頼を寄せる主人。そんな二人の関係は、立場が対等ではない者同士の、言い換えれば対等ではないからこその、奇妙な信頼関係を帯びてゆく。そしてそれは、物語の終盤の非常に重要な場面で、二人の関係を『ワーニャ伯父さん』における終幕直前のワーニャとソーニャの関係に重ねているシーンで遂に〝対等〟となる。

■女を失う男たち 喪失を演じること

 村上春樹の『シェラザード』の中には以下のような一文がある。

 しかし羽原にとって何よりつらいのは、性行為そのものよりはむしろ、彼女たちと親密な時間を共有することができなくなってしまうことかもしれない。女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった。

 性的関係を共有する親密なパートナーに何を求めるかによって異なると思うが、男性が女性へ抱く想いとして、私の感覚で言えば、上記の例えに異論は無い(女性が男性へ、ではまた大きく異なりそうな気がする)。監督である濱口竜介も、本作について「女性に去られるということは男性の根源的な恐怖」と語っている。
 『ドライブ・マイ・カー』の家福を捉え続けるのは、用意しながらその封を永遠に閉じつつこの世からいなくなってしまった妻:音が「最後に伝えようとしていたこと」である。
 『木野』には、妻が浮気をした末に離婚をすることになった語り部の木野が、妻から以下のような問いかけをされるシーンがある。

 「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と妻は彼に尋ねた。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は噓だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。

 映画『ドライブ・マイ・カー』の予告でも象徴的に引用される「僕は正しく傷つくべきだった」という家福の言葉は、上記の木野の心情の再構築と言える。そして、木野の職業は役者ではないが、ここでも前記の〝演技する〟という感覚が重要な意味を成している。
 自分の愛する女を、男が失うということ。それは悲しいことだろうか?それは男が涙を流してオイオイと泣くことだろうか?そもそもこういう局面に陥ってオイオイ泣けるような男は、こんなことを考えすらしないであろう。
 つまり、「有害な男性性」であったり「男らしさから降りる」と言った物語は、ここ何年かで世の中に顕著に出回るようになった気がするが、そこに共感することができるような感覚の男性こそが、いざ自分の身にそうした〝喪失〟が降りかかると、なんてことはない、これが人生だ、男と女の関係には絶えず付かず離れずが存在するのだ、それが当たり前なのだ、特に悲しいことではない、自分より不幸な人間は山ほどいる、「なんてことはない」と自身の感情を偽り〝喪失の演技〟をしてしまうことはないだろうか?
 映画の最後で家福は、もう喪失を演じる必要はない、という答えに辿り着き、それまで避けてきた『ワーニャ伯父さん』と再び対峙することとなる。ソーニャがワーニャに訴える「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。」という言葉は、オプティミズムだろうか。それともニヒリズムだろうか。あるいはそれらの概念を理解していない者の口から出た、嘘偽りない感情を乗せた言葉だろうか?
 劇中でみさきが高槻のことを「嘘をついているようには思えない」と喩えたように、病気によって視力の喪失を経験した私にとっては、チェーホフがソーニャという鋳型に託した言葉も、家福がユナ(パク・ユリム)という俳優の韓国手話を通して発した言葉も、「嘘をついているようには思えない」のであった。

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 海沿いの病室から片目で眺めた海は、今まで見たことがないほど穏やかだった。

 

 

 

 

 

2020年公開作品ベスト10

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.幸せへのまわり道

 未就学児向けのテレビ番組で長年ホストを務める〝ミスター・ロジャース〟と、彼の記事を任される記者との交流の物語。ロジャースの番組のセットという体で、例の〝二つの塔が象徴的に写るが、これは恐らく、たかだか20年程しか経過していないのに世界が決定的に変わってしまった分岐点というか、その前時代を描く「最後の寓話」といったような意味合いがあるのではないかと思う。

 

.燃ゆる女の肖像

 アデル・エネル演じるエロイーズの初登場シーン、ローブのフードがはだけてブロンドが覗くタイミングに見惚れていれば、以降はあっという間の122分。女と女で始まった物語にもう一人の女が加わり、そして再び二人の女の物語になる。

 

.ナイブズ・アウト

 幅広い層にアピールするミステリ・医療ドラマ・法廷ドラマなどは社会を写す〝鏡〟であるように思うので、その意味で「選挙の負けすら潔く認めない」卑劣な男が、恐怖と憎悪そして不寛容を撒き散らした4年間を総括したような映画になっていたと思う。

 

.レ・ミゼラブル

 「不正が記録されたメディアの争奪戦」という意味では寓話的な要素が強い「ブラック アンド ブルー」(後述)と共通するのだが、より切実というか、ドキュメンタリー的な手法で爆発寸前(もっと言えば実際に爆発する)の空気を的確に捉えている。

 

.ナイチンゲール

 英植民地時代のタスマニア豪将校に伴侶と子供を殺された女の復讐劇。と思いきや、蔑みながら道案内に雇ったアボリジニの男との道程は、単なる復讐譚とは一線を画す(ニューシネマ的な)奇妙な共闘の旅となる。

 

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.ウルフズ・コール

 〝ある才能に秀でた〟若者が、実地でベテラン衆に揉まれての成長譚としてまず出色だが、表題から転じる後半こそが主題であり、規律を「義理人情や信頼」で覆すことは可能なのか?というドラマがメインとなる。「若者は命と引き換えに何を失うのか?」というほろ苦い終着点も素晴らしい。

 

.スペシャルズ〜(意図不明の長い副題)〜

 全世界的に不寛容の波がどんどん高くなり各所に押し寄せる昨今(『ナイブス・アウト』もメインキャラは福祉関係に従事している)、賞賛を受けて然るべきは〝戦士であり聖人〟であるこうした人々であると思う。実話ベースの作品という観点では本年度ベスト。

 

.家族を想うとき

 終盤、妻アビーが夫リッキーの事業主に対して電話で激昂した末に泣き出してしまう〝理由〟、そこに全てが凝縮されていたように思う。「(文句は言いつつも)仕事に誇りを持って働く労働者を蔑ろにする社会はロクなものではない」というケン・ローチの主張は一貫している。

 

.ウルフウォーカー

 この手のファンタジーにしてまさか「男性性からの解放」的なサブテーマに盛り込んでいたので驚いた。それを抜きにして、ジュヴナイル物としても優れている。

 

10.ブラック アンド ブルー

 本来であればジョージ・フロイド事件〜BLMの流れを受けて社会現象になって然るべきような映画が、限定的な規模で短期間に上映終了してしまったことが悔やまれる。「不正義の犠牲となったのがたとえ犯罪者であっても殺人は殺人」という真っ当な倫理観は、萎縮した世界では脅威となり得る様を象徴的に描いている。

 

次点

ストレイ・ドッグ/ハッピー・オールド・イヤー/100日間のシンプルライフ/マルモイ/君の誕生日/ザ・ハント/パピチャ/真夏の夜のジャズ82年生まれ、キム・ジヨン/マティアス&マキシム/プリズン・エスケープ/ブリング・ミー・ホーム 尋ね人/シチリアーノ 裏切りの美学/ブックスマート/2分の1の魔法/ワイルド・ローズ/透明人間/はちどり/ANNA/グッド・ボーイズ/その手に触れるまで/若草物語/ハリエット/ルース・エドガー/在りし日の歌/羅小黒戦記/ジョンFドノヴァンの死と生/グッドライアー/フォードvsフェラーリ/家族を想うとき/燃えよスーリヤ!!

 

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疫病退散!皆さま良いお年を!

理想主義者は〝男らしさ〟から降りる 『梨泰院クラス』

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 ほとんど連続ドラマを観ない習慣にあって、例外的にどっぷりハマってしまったのが数年前の「ブレイキング・バッド」であったが、引き続きそんなに連続ドラマを観ない習慣を継続しながら、何気なくかじった一口から貪るように続きを観てしまったのが「梨泰院クラス」であり、韓国製の連続ドラマにハマったのも実はこれが初めて。そんな海外連ドラ初心者の身であると自覚しつつも、「一体何にそんなに焚き付けられたのか?」を以下に記すので、ご興味がおありの方は是非ご一読頂ければと思います。

■あらすじ
 とある高校に転向して来たパク・セロイ(パク・ソジュン)。セロイは転校初日に、グンウォン(アン・ボヒョン)という生徒が別の生徒を執拗に虐めている現場を目撃する。グンウォンは韓国一の飲食チェーンを展開する「長家(チャンガ)」グループの御曹司であり、他の生徒は虐めに対して見て見ぬふりをしている状況だった。同級生のスア(クォン・ナラ)からグンウォンの家柄を説明され「やめておいた方が」と止められるも、セロイは虐めをやめさせる為にグンウォンを殴ってしまう。
 長家会長のチャン・デヒ(ユ・ジェミョン)が直々に学校へやってきてセロイに土下座を要求する。その場にセロイの父(ソン・ヒョンジュ)も呼ばれたが、セロイの父は長家の従業員であった。「(自分のしたことが)悪いと思えないので」と涙ながらに土下座を断ったセロイだったが、けじめをつけるために父親はチャン会長にその場で辞職を申し出る。
 長家を辞め、二人の夢であった独立した飲食店のオープンを準備するセロイと父。そんな中、父親は交通事故で帰らぬ人となってしまう。
 轢き逃げした人物が出頭するも、路上カメラに写っていたのはグンウォンの車であることにスアが気付いてしまう…

 と、ここまでが第一話で、以降は一言で言ってしまえば韓国映画などにも顕著なジャンルである「復讐劇」であることがわかる。しかしながら、いつくかの点において、私が(韓流ドラマに対して)イメージしていた「ベタな展開のドラマ」という印象をアップデートしてくれる、革新的なテーマが見受けられたのである。

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■家畜と人間
 父の仇であることを知ったセロイはグンウォンを殺すつもりで殴打、しかし直前で手を止め、傷害罪で服役することに。
 実は長家は警察にも顔をきかせており、グンウォンの轢き逃げもなきものにしてしまう。難を逃れたグンウォンだが、父親に呼び寄せられて、自宅の鶏舎に連れて行かれてこんなことを言われるシーンがある(2話)。

「鶏の殺し方も経営も 主なら全てを知っておくべきだ いまからこいつを料理する

首をひねって殺す 羽をむしり内臓を取り出してから細かく切って油で揚げる

お前が首をひねってみろ」

 「できない 僕には無理だ!」と、今にも泣き出しそうなグンウォンの首根っこを捕まえ、父はこう続ける。 

「無理か 家を継がないのか?やれ!ちゃんとひねらないと首が折れたまま暴れまわるぞ」

「パク・セロイを見て分かった お前と違って器がデカい だがあいつは家畜 お前は人間だ あいつに2度も殴られたんだろ?なぜ罪悪感を持つ?この鶏はパク・セロイだ」

「俺の息子なら 長家の後継者なら…鶏や豚を食う時 罪悪感など抱くな」

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 ここまで来て、私はこの連続ドラマの本丸をようやく理解した。つまり、この時点で主人公が打倒すべき敵が掲げてる、亡き父の仇の親であり絶大的な権力を有する王であるチャン会長に象徴される「家父長制」、並びに、素質のない人間に「一端の男なら鶏の一羽も殺せずどうする」と迫る〝有害な男らしさ〟である(グンウォンは確かにどうしようも無いクズでドラ息子ではあるが、彼もまた〝有害な男らしさ〟によって生み出された被害者であることが、終盤に本人の口からも語られる)。復讐劇としてこの二点が設定されたことは非常に興味深い事象であり、私自身も以降は襟を正しての鑑賞となった。

■頭をかく理想主義者
 出所後、セロイは「タンバム」という居酒屋を始める。この小さな居酒屋から始めて、飲食業界のトップ企業である長家に勝負を挑むという壮大な計画である。客のあるトラブルにより、セロイは警察署でグンウォンと再会。そこでセロイの口から「お前の時効が成立する前に罪を贖ってもらう」という趣旨の復讐計画も明らかになる。
 このセロイの計画には実はとんでもない隠し兵器があり、そこでまた1話に立ち戻るという伏線の貼り方が絶妙であり、それが判明する6話の終わりは前半最大のクリフハンガーと言って良い。
 色々あってセロイは長家社内の反会長派であり、亡き父とも親しかったカン専務(キム・ヘウン)と手を組むことになる。カン専務に「目標は復讐だけ?」と聞かれたセロイはこう答える(セロイは、返答に困った時・照れ臭い時・激しく湧き上がる感情を抑制する時など、頭をかくというか短髪を前に撫で付けるようなクセがある)(8話)。

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「復讐…その後に 僕が欲しいのは自由です」

「僕と仲間が誰にも脅かされないよう 自分の言葉や行動に力が欲しい 不当なことや権力者に振り回されたくない」

「自分が人生の主体であり 信念を貫き通せる人生 それが目標です」

 「さすが理想主義者の言葉ね」と返すカン専務。こんな当たり前の言葉が理想主義と捉えられてしまう現実。現代の韓国よりは、日本に住む者の方がより深い感慨を覚えるような気がしてならない。

■理想主義者の怒り
 タンバムの従業員:料理人として、ヒョニ(イ・ジュヨン)というトランスジェンダーのキャラクターが登場する(演じているイ・ジュヨンは女性なので批判もありそうだが、韓国のLBTG事情や芸能事情に疎いので指摘に止めさせて頂く)。ヒョニが「最強の居酒屋」というテレビ番組の料理対決にて決勝の直前、ネット上で「ヒョニはトランスジェンダー、元男性である」という旨の噂が拡散され、ヒョニは収録直前にスタジオからいなくなってしまう。局内を探しまわってやっとヒョニを見つけたセロイは、失意のヒョニにこう言葉をかける(12話)。

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「逃げてもいい いや、悪くもないのに〝逃げる〟は変だ」

「好奇の目に耐えてまですることではない お前はお前だから 他人を納得させなくていい 大丈夫だ」

 泣き崩れるヒョニを受け止め、カン専務に言った「僕と仲間が誰にも脅かされないよう 自分の言葉や行動に力が欲しい 不当なことや権力者に振り回されたくない」の言葉を思い出すセロイ。そしてヒョニを受け止める微笑から一転、往年の高倉健もかくやという鬼神の表情を浮かべ、こう独白して結ぶ。

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「心の底から怒りがこみ上げてくる」

 パク・セロイという人物に関しては、特にLBGTフレンドリー/ストレイトアライ的な側面を強調して描くような場面はない。むしろそうしたことには疎いが、単純に人種や性別に対して偏見がなく、不平等であることが許せないだけであろう。

■〝男らしさ〟から降りる
 詳細は端折るが、セロイ率いる株式会社ICは、タンバム従業員の一丸となった働きなどにより、長家を脅かすまでの企業へと成長していた。そんな中、ある人物による暴力沙汰でセロイは瀕死の重傷を負ってしまう。朦朧とした意識の中で、セロイは亡き父親の夢を見る。その川は渡らないで的なシチュエーションが展開する中、「今まで辛かったろう」と息子を労う父に、セロイはこう打ち明ける(15話)。

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「〝何てことない〟〝問題ない〟って頑張ってきた でも本当は 1日も楽な日はなかった」

「父さんが恋しかった 誰かを憎みながら生きること自体がつらかったよ」

「(父さんを)抱き締めても?」

 劇中、セロイは降りかかる如何なるトラブルも、所謂〝不屈の精神〟で乗り越えてきた。それが父親の前ではこうした「復讐者として、男として威勢を張る」その反動である弱さや脆さを吐露して見せる。「リベンジってマジでシンドイ」と主人公の口から語らせるのは、中々画期的であるように思う。この他にも、これ以前の大一番で、チャン会長にしてやられた際にセロイを襲う身体的変化=「ショックと嫌悪感から嘔吐してしまう」も、男性キャラクターにこうした表現を託すのは自分の記憶でもあまりお目にかかったことはない気がするのである。

 以上、復讐劇ともう一つの主軸であるスアとチョ・イソ(キム・ダミ)との三角関係には全く触れなかったが、とにかくこの紹介で少しでも『梨泰院クラス』というドラマに興味を持って頂ければ幸いである。いろいろな機会で言っているが、とにかく騙されたと思って、1話だけでも見てみてください。

 今夜、あなたの飲むお酒は甘くなりましたか?

2019年公開作品ベスト10

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1.幸福なラザロ

 〝大島弓子の原作をクストリッツァが映画化したような〟作品であり、果たして「そんな奇跡の様なコンセプトが結実し得るのか?」と思った貴方、是非観てください。

 2.マローボーン家の掟

 「特殊性があるとか映画にしか出来ない表現をしているとかいうのとは違う、言葉にされることを頑なに拒んでいる感じ。だからこの映画について語るには映画の中で会うしかない。」とはツイッターフォロイーさんの言葉

 3.ある少年の告白

 〝アライになれるはず/なるべき人間による背信の罪深さ〟といったことを改めて思い知らされる作品。LBGTQという問題を扱う時、ラストの「歩み寄れる側こそが歩み寄るべきである」というシンプルで力強い問い掛けが余韻として残る。

 4.ラスト・クリスマス

 こちらも上記『幸福なラザロ』同様に〝大島弓子がすでに描いていそうな話〟であり、繊細さというメインディッシュにはユーモアという名のお皿が用いられ、2019年暮れの英国における世知辛い国内事情がスパイス的にまぶされる。

 5.アイリッシュマン

 驚いたことに小津安二郎作品のような瞬間が何度かあり、内容的にもだんだん中村伸郎(ペシ)と佐分利信(パチーノ)の間を右往左往する北竜二(デ・ニーロ)みたいに見えて来て笑ってしまった(⇨メモリーズ・オブ・マーダー 『アイリッシュマン』 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥)。

 

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6.毒戦 BELIEVER

 ジョニー・トーのオリジナルとは同じことを描きながら全く別の話になっており、90年代を代表する〝とある米製インディノワール〟と同オチを用いながら、韓国ノワールらしい男と男の愛と憎を描いた作品になっていた。

 7.ゴールデン・リバー

 〝死なない兄弟〟荒野を行く。終盤の「弟は(ある出来事)以来、変わってしまった。兄の俺がやるべきだったんだ」という台詞はマイケル・ギルモアの「心臓を貫かれて」を想起する。西部劇のフォーマットで、新旧世代間の家父長制に対する呪縛の違いを描いている。

 8.サスペリア

 ダコタ・ジョンソンの「器/容れ物」感が素晴らしく、その素質を転じてオチとする結びも素晴らしかった。足元にあるのは「つまづきの石」。

 9.キャプテン・マーベル

 「笑えよ」と男に言われて愛想笑いしない女。「最高の君を見せてくれ」と言われて「あんたにわざわざ証明する必要はない」と返す女。これからも色んな機会でこの映画のことが引用されると思う(⇨「最良の君」という呪い 『キャプテン・マーベル』 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥)。

 10.ひとよ

 同監督の「凪待ち」に続いて2010年代の終わりにしてまるでATG映画のようであり、松岡茉優という現邦画界のトップランナーが、同じく〝正攻法もオルタナティブもイケる〟田中裕子という世代の違う怪優と、一つのフレームに収まっている様に物凄く興奮した。

 

次点

スパイダーマン:スパイダーバース/フリーソロ/スノー・ロワイヤル/ベン・イズ・バック/僕たちのラストステージ/THE GUILTY ギルティ/ビール・ストリートの恋人たち/サラブレッド/エイス・グレード/ガーンジー島の読書会/存在のない子供たち/スパイダーマンFFH

チャイルド・プレイ

 

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皆さま良いお年を!

メモリーズ・オブ・マーダー 『アイリッシュマン』

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 マーティン・スコセッシのフィルモグラフィにおいて、実録犯罪物の礎を築いた作品に「グッドフェローズ」があるが、その中で印象深いシーンがある。

 映画の中盤、主人公ヘンリー・ヒルレイ・リオッタ)が足繁く通うナイトクラブにカメラが入っていくと、彼の仲間が所謂「第四の壁」を越え、カメラ目線で話しかけてきて、そこに「彼は◯◯、こっちは◯◯」という具合にヘンリーのヴォイスオーバーが重なるのだ。

 当然観客は、これはヘンリー目線のショットなのだな、と思い込む。ところが当のヘンリーは、後から毛皮のコートをキャリーで運びながら何事もなかったかのようにフレームインしてくるのだ。そこで「コレはどこに置いとくんだ?」という取り留めのない会話を始めると、シーンの終わりには観客はそもそもこのショットがPOVであったことをもう忘れている。中々奇妙なショットであり、私も何度か観るまでは気付かなかった。

 『アイリッシュマン』も、実は上記の様な「妙な視点」で始まる作品である。

 フランク〝ジ・アイリッシュマン〟シーラン(ロバート・デ・ニーロ)は、現在老人ホームに居住しており、そこにインタビュークルーが訪れて話を聞くようにフランクはカメラ目線で回想を始める、という体裁だ。ところが結局最後までインタビュークルーの姿は映らず、場合によっては全編がシーランの独り言、という体裁のようにも受け取れるだろう。

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小津安二郎のような執拗さ

 この妙な体裁を用いて浮かび上がるのは、フランク・シーラン、ラッセル・バッファリーノ(ジョー・ペシ)、ジミー・ホッファ(アル・パシーノ)という裏社会に生きる男たちの三角関係だが、恐喝や恫喝、時には殺人までも厭わないギャングの世界に生きる人々の「普通の暮らし」ぶりも同様に並列で描く。先に挙げた実録犯罪物のコーナーストーン的な作品となった「グッドフェローズ」と、ラスベガスの栄枯盛衰を見続けた男の一代記「カジノ」でも、スコセッシが扱ってきたテーマである。

 「娘を突き飛ばした雑貨店店主にフランクが暴行」「血塗れのシャツで夜中に帰宅したラッセルに『そのシャツは始末しておくからシャワー浴びてきたら?』と促す妻」あたりは「グッドフェローズ」においてヘンリーの妻が「友人からレイプされそうになったと恋人のヘンリーに告白すると、その友人たちを目の前で銃座で半殺しにする様に興奮してしまった」と対になっている気がするし、ケネディ暗殺の翌日に米国内が半旗で追悼する中、チームスターの本部では半旗を止めさせて通常のように国旗を掲げ直す様は、「カジノ」において親族内のイザコザが原因でFBIに喧嘩を売り続けるサム・ロススティーン(デ・ニーロ)の姿を彷彿とさせる。

 エンジンスタートで爆発する車、見せしめとして爆破されるタクシー等々、ヴィジュアル的にも「グッドフェローズ」「カジノ」に連なるイメージが重複する。

 小津安二郎という人は、一般的には「父が娘を嫁にやるまでの話を延々描き続けた」というイメージがあるだろう。しかし実際に作品を確かめてみれば、同じ「父が娘を嫁にやる話」でも「晩春」と「秋刀魚の味」ではかなりの違いがあるのだが、小津という人が「冠婚葬祭に纏わる悲喜交々」を描き続けた監督であることには間違いはない。「アイリッシュマン」を観てこんな感想を抱くのは自分でも意外だったが、スコセッシもまさに「ギャングの世界の悲喜交々」を更に深いレベルで描こうとしているのではないのか?それが確信に変わったのは、冒頭の「全てが結婚式を中心に回っていた」というフランクのナレーションがあったからでもある。

 もう一点、小津との類似性で「まさか」と思ったのは、序盤、あるクリーニングチェーンを爆破するような仕事を請け負ったフランクが、そのチェーンを事前に偵察するシーンがあるのだが、そこで流れる曲、『裸足の伯爵夫人』の「Bolero」の使い方である。これが小津作品における斎藤高順の雰囲気にそっくりで、少々面食らってしまった。

 スコセッシは「グッドフェローズ」の製作にあたり「『ゴッドファーザー』で神格化されてしまったイタリア系マフィアのイメージを引き摺り下ろす」という旨の発言をしており、「アイリッシュマン」でもその点は一貫している。

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 トニー・プロ(スティーヴン・グレアム)とホッファの諍いは、観ながら「アホか」と声が出そうなほど子供っぽい理由によるモノであり、そこから人殺しにまで発展するという事実は異常としか思えないが、「裏社会」というボーイズクラブでホモソーシャルなゲームに興じてきた男たちにとっては、ゲームを進めるにあたって邪魔を排除=殺人ぐらいのことはなんてことはないのであろう。「グッドフェローズ」制作時にスコセッシは、裏社会界隈の人々の話を聞くにつれ「モラルが完全に欠如しており、そこで成立する世界に興味を持った」といった内容の発言もしており、その「通常のモラルの枠外で生きる人々」というテーマは「アイリッシュマン」でも強調されている。

 一般の市民のモラルと異なる「貴族/上流社会」の日常を執拗に描いた作家で言えば、ルキノ・ヴィスコンティという監督の名前も思い浮かぶ。「秋刀魚の味」「山猫」「アイリッシュマン」、三作に共通するのは「一人残された父親を、カメラは捉え続ける」という終幕である。そのスタイルではなく、テーマの共通性において、小津とヴィスコンティという、敬意を表してやまない二大巨匠に近付いた約三時間半の異色大作が、ネット配信の前提(一部劇場で公開はされたが)で制作されたという事実は、後の映画史を振り返る際にターニングポイントとして語られるのではないだろうか。

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「最良の君」という呪い 『キャプテン・マーベル』

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 ベスト・ヴァージョン・オブ・ユアセルフ。最良の君を見せてくれ。本作の中で、ある人物が象徴的に何度か繰り返す言葉である。
 最良の君を見せてくれ。男性である自分は、こういった言葉を他の、特に年上の男性などからかけられたことがあるだろうか?せいぜい部活で根性論第一主義の顧問に言われたことがあるかな、程度の記憶しかない。ところが「キャプテン・マーベル」を観てみると、この言葉は男性より寧ろ女性の方が、様々な場面でかけられる機会が多い言葉なのではないか?そんなことを考えた。
 まず他人が定義する「最低」や「最高」の判定ほど、あやふやな基準もない。抑圧を好む人間ほど、こうした「曖昧な定義」を用いて、既に相応なスキルを持ち合わせる人間に対し、「まだまだ君のベストなヴァージョンではない」と曖昧な評価を下すことで、自分を優位に置き、そしてその人間を支配下に置くこともできる。
 「キャプテン・マーベル」は、持てるポテンシャルを存分に発揮できるのにもかかわらず、恣意的な抑圧により力を抑制され続ける一人の女性が、最後にはそこから解き放たれ、一隻や二隻の戦艦なら鼻歌交じりに爆破してみせる、そんな物語である。

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 未熟な自分を導いてくれる言葉だと思っていたが、それは単に自分を縛り付けコントロール下に置くための呪いの言葉でしかなかった。こうした反転が「人を見た目で判断してはならない」「所属する組織とはいえ常に疑問を持つべきである」といった多重の構造と共に巧妙に配置され、物語は「ヒドゥン」や「エイリアン・ネイション」といった、80年代後半に量産された異星間バディ物の体裁を借り、時にオフビートに展開する。過去の記憶を失っていたヴィァース/キャロル・ダンバース/キャプテン・マーベルブリー・ラーソン)が全てを理解し、覚醒し、宇宙空間で歓喜の雄叫びを上げる時、理不尽な抑圧を経験したことのある全ての人間は、共に快哉を叫ぶであろう。
 劇中、キャロルは笑うこともあるが、通りすがりの男がまるで挨拶とワンセットであるかのような「笑えよ」という無自覚な抑圧には笑わない。当たり前の話だが、可笑しいか可笑しくないかは彼女が決めるのだ。