メモリーズ・オブ・マーダー 『アイリッシュマン』

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 マーティン・スコセッシのフィルモグラフィにおいて、実録犯罪物の礎を築いた作品に「グッドフェローズ」があるが、その中で印象深いシーンがある。

 映画の中盤、主人公ヘンリー・ヒルレイ・リオッタ)が足繁く通うナイトクラブにカメラが入っていくと、彼の仲間が所謂「第四の壁」を越え、カメラ目線で話しかけてきて、そこに「彼は◯◯、こっちは◯◯」という具合にヘンリーのヴォイスオーバーが重なるのだ。

 当然観客は、これはヘンリー目線のショットなのだな、と思い込む。ところが当のヘンリーは、後から毛皮のコートをキャリーで運びながら何事もなかったかのようにフレームインしてくるのだ。そこで「コレはどこに置いとくんだ?」という取り留めのない会話を始めると、シーンの終わりには観客はそもそもこのショットがPOVであったことをもう忘れている。中々奇妙なショットであり、私も何度か観るまでは気付かなかった。

 『アイリッシュマン』も、実は上記の様な「妙な視点」で始まる作品である。

 フランク〝ジ・アイリッシュマン〟シーラン(ロバート・デ・ニーロ)は、現在老人ホームに居住しており、そこにインタビュークルーが訪れて話を聞くようにフランクはカメラ目線で回想を始める、という体裁だ。ところが結局最後までインタビュークルーの姿は映らず、場合によっては全編がシーランの独り言、という体裁のようにも受け取れるだろう。

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小津安二郎のような執拗さ

 この妙な体裁を用いて浮かび上がるのは、フランク・シーラン、ラッセル・バッファリーノ(ジョー・ペシ)、ジミー・ホッファ(アル・パシーノ)という裏社会に生きる男たちの三角関係だが、恐喝や恫喝、時には殺人までも厭わないギャングの世界に生きる人々の「普通の暮らし」ぶりも同様に並列で描く。先に挙げた実録犯罪物のコーナーストーン的な作品となった「グッドフェローズ」と、ラスベガスの栄枯盛衰を見続けた男の一代記「カジノ」でも、スコセッシが扱ってきたテーマである。

 「娘を突き飛ばした雑貨店店主にフランクが暴行」「血塗れのシャツで夜中に帰宅したラッセルに『そのシャツは始末しておくからシャワー浴びてきたら?』と促す妻」あたりは「グッドフェローズ」においてヘンリーの妻が「友人からレイプされそうになったと恋人のヘンリーに告白すると、その友人たちを目の前で銃座で半殺しにする様に興奮してしまった」と対になっている気がするし、ケネディ暗殺の翌日に米国内が半旗で追悼する中、チームスターの本部では半旗を止めさせて通常のように国旗を掲げ直す様は、「カジノ」において親族内のイザコザが原因でFBIに喧嘩を売り続けるサム・ロススティーン(デ・ニーロ)の姿を彷彿とさせる。

 エンジンスタートで爆発する車、見せしめとして爆破されるタクシー等々、ヴィジュアル的にも「グッドフェローズ」「カジノ」に連なるイメージが重複する。

 小津安二郎という人は、一般的には「父が娘を嫁にやるまでの話を延々描き続けた」というイメージがあるだろう。しかし実際に作品を確かめてみれば、同じ「父が娘を嫁にやる話」でも「晩春」と「秋刀魚の味」ではかなりの違いがあるのだが、小津という人が「冠婚葬祭に纏わる悲喜交々」を描き続けた監督であることには間違いはない。「アイリッシュマン」を観てこんな感想を抱くのは自分でも意外だったが、スコセッシもまさに「ギャングの世界の悲喜交々」を更に深いレベルで描こうとしているのではないのか?それが確信に変わったのは、冒頭の「全てが結婚式を中心に回っていた」というフランクのナレーションがあったからでもある。

 もう一点、小津との類似性で「まさか」と思ったのは、序盤、あるクリーニングチェーンを爆破するような仕事を請け負ったフランクが、そのチェーンを事前に偵察するシーンがあるのだが、そこで流れる曲、『裸足の伯爵夫人』の「Bolero」の使い方である。これが小津作品における斎藤高順の雰囲気にそっくりで、少々面食らってしまった。

 スコセッシは「グッドフェローズ」の製作にあたり「『ゴッドファーザー』で神格化されてしまったイタリア系マフィアのイメージを引き摺り下ろす」という旨の発言をしており、「アイリッシュマン」でもその点は一貫している。

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 トニー・プロ(スティーヴン・グレアム)とホッファの諍いは、観ながら「アホか」と声が出そうなほど子供っぽい理由によるモノであり、そこから人殺しにまで発展するという事実は異常としか思えないが、「裏社会」というボーイズクラブでホモソーシャルなゲームに興じてきた男たちにとっては、ゲームを進めるにあたって邪魔を排除=殺人ぐらいのことはなんてことはないのであろう。「グッドフェローズ」制作時にスコセッシは、裏社会界隈の人々の話を聞くにつれ「モラルが完全に欠如しており、そこで成立する世界に興味を持った」といった内容の発言もしており、その「通常のモラルの枠外で生きる人々」というテーマは「アイリッシュマン」でも強調されている。

 一般の市民のモラルと異なる「貴族/上流社会」の日常を執拗に描いた作家で言えば、ルキノ・ヴィスコンティという監督の名前も思い浮かぶ。「秋刀魚の味」「山猫」「アイリッシュマン」、三作に共通するのは「一人残された父親を、カメラは捉え続ける」という終幕である。そのスタイルではなく、テーマの共通性において、小津とヴィスコンティという、敬意を表してやまない二大巨匠に近付いた約三時間半の異色大作が、ネット配信の前提(一部劇場で公開はされたが)で制作されたという事実は、後の映画史を振り返る際にターニングポイントとして語られるのではないだろうか。

The Irishman | Netflix Official Site