負け続ける若者たち〜「サイタマノラッパー」三部作〜

三作目の公開に合わせて過去作を鑑賞して、色々と思うところがあったので以下に記したいと思います。なお、三作鑑賞済みという前提で話を進めますので、未見の方はどうぞご注意を(あんまりネタバレがどうこう、っていう映画でもないと思うけど)。
SR サイタマノラッパー

まず、今まで何故話題になっていたこの映画を避けていたかというと、単純に機を逃していたっていうのもあるけどそれ以上に「おそらく自分にとっての理想的なヒップホップ映画ではないであろう」というのがまずあったから。案の定、映画が始まってそこに展開されていたのは、高校生ぐらいからヒップホップを聴いてきた自分にとっての理想的な「ヒップホップ映画」とは、お世辞にも言えなかった。悪気がないのはよくわかるけど、低予算であることをエクスキューズにするかのように映画の作りは安いし、何より劇中に流れるトラック/ラップ・出演者のファッション・言動・等々、非常に雑な「ヒップホップ観」を提示してくる感じが、如何せん自分にも愛情がある音楽のことなので何と言うかもう観るに耐えなくて、何度もDVDの再生を停止しようと思ったぐらいである。
しかし、ラスト近くになり、その認識を自分は改めることになる。すでにご覧になった方ならわかって頂けると思うが、あの「居酒屋での再会」のシーンである。
色々あって夢破れた者たちが、ふとしたきっかけで再会を果たす。この時、二人の若者は、その「やり場のない焦燥」をラップに託すのである。ここでのIKKUとトムのラップに心が揺り動かされなかった、と言えば嘘になる。簡単に言えば自分は、最後の最後で感動してしまったのである。
だがそれもまた、二作目を観て考えを改めることとなる。


SR サイタマノラッパー女子ラッパー傷だらけのライム

一作目では埼玉が舞台であったが、今度はそれを舞台を群馬に移す。一作目で主役だったIKKUとトムが、彼らにトラックを作ってくれたが今はもう亡くなってしまった武田先輩が伝説の野外ライヴをしたという河原を探して、群馬にやってくる、という導入である。そこで彼らはかつてB-HACK(美白)というラップグループで活動していた五人の女子(という呼び方もなんだけど)と出会い、以降は彼女たちのエピソードがメインとなる、という構成である。
この女子五人がメインとなってからのお話しはと言えば、彼女たちがラップグループの再結成を試みて奔走するが、そこには様々な問題が降りかかり、結局計画は水泡に帰してしまう。一度は掴みかけた希望の光が、彼女たちの指の間からスルスルと流れ落ちていってしまう過程をカメラはジットリと追うのである。ちょうど一作目がそうだったように。そして驚くべきことは、もう完全に「終わってしまった」「夢破れてしまった」という場面で、先のIKKUとトムを投入し、「夢をあきらめるのか」と鼓舞するのである。一作目のラストと同じように、つたないラップの力を借りて。
つまり、入江悠という監督は、意識的にしろ無意識的にしろ、ここで一つの「鋳型」を発明してしまったこととなる。夢抱く若者に焦点を当て物語を追いながら、その本音をラップで語らせ、更に夢破れてからは「お前は本当にそれで満足なのか」とラップで突っ込みを入れる。
これは山田洋次が「寅さん」でやった方法論と同じである。これを用いれば、北関東どころか、47都道府県、いや、地の果てまで続けることが出来る。一作目の最後でIKKUとトムは守護天使的なキャラクターとなってしまったので、各地の若者の元に彼らを派遣して、彼らに若者たちの背中を押すようなラップをさせれば良いわけだ。
などと考えていたら、先日観た三作目の最後には、ある意味で「夢破れた若者たち」の終着駅が用意されていた。それはどこかと言うと……


SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者

三作目では、一作目でIKKUとトムに愛想を尽かせて東京に旅立っていったマイティが主人公となる。彼は「極楽鳥」というラップグループの元で「いつかクルーの一員としてステージに立たせてやる」という口約束を信じて舎弟のような身分に甘んじているが、あるゴタゴタが原因でメンバーを殴打してしまい、東京を追われる身となる。そして逃げ転がり込んだ先の栃木でも暗雲が立ちこめて…というのが大筋となる。
夢破れた若者たちの終着駅。それは人を危めてしまったことでマイティが入れられている留置所である。そして、もう三作全部観てきた方なら薄々お気づきであろうが、ここにもやはりIKKUとトムが投入される。

留置所でのラップである。一瞬「70年代の青春映画か」とクラクラしたが、そう連想するのも当然と言えば当然で、やはりこの「SRシリーズ」における「フォークソングの代替としてのラップ」という印象が非常に大きいような気がする。

>そしてそのとどめとしてのラストの遺書読みは、結局キミらはこんなんでも泣いちゃうのかな?という底知れぬ皮肉なのだと思いたい。だからこれがすべて額面通りなのだと言われたら少しワタシは困ってしまうし、遺書読みは素直に泣くところだと言われたら、いやでもその連綿と読み上げたあれこれを光と影に置き換えたのが映画という説明の芸術なんだと思ってるんだけどなどと言ってしまうかもしれないので、とりあえずはワタシが思いたいように思っていようと思う。
■さや侍/あちらとこちらで抜き差しならぬ 〜傷んだ物体

上記は「傷んだ物体」のOrrさんによる「さや侍」評である。「SR」シリーズで開発された「真情を吐露するためのラップ」は、「さや侍」におけるラストのフォークソングと、なんら変わりはない。一見、目新しいように、新鮮に映るかもしれないが、映画技法的には紛れもない退化である。
しかしながらこの「SRシリーズ」は若者の共感を得たであろうし、三本もシリーズ化された事実が何よりもそれを物語っている。
この映画を支持した若者たちは、同世代の若者たちが「負け続ける」様を見て、一体何を思っただろう?そこに「どうしてこういうヒドいことになったのか?」という源流にまで思いを馳せたりしただろうか?
わざわざ08年に時代を設定して、お笑いを目指すフリーターと元自衛官という象徴的なキャラクターを主役に据え、井筒和幸が「ヒーローショー」という映画を撮った意味の大きさのことを考えると、あの作品はもっと評価されてしかるべき作品であるように、改めて思うのである。


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