歴史は後ほど作られる「ミッドナイト・イン・パリ」


ウディ・アレンの新作。本当は作家として生計を立てたいハリウッド映画の脚本家がフィアンセと共に婚前旅行でパリを訪れ、そこで憧れの1920年代にタイムスリップしてしまう、という荒唐無稽なお話。しかしそこには、こうした荒唐無稽なタイムスリップ物でしか語ることが出来ない、誠実なアレンの訴えが綴られていた。

先月の末に日本でも発売され、自分の周囲でも色めき立っていた人が多かった、マイ・ブラッディ・バレンタインの2作のアルバムのリマスター盤。このバンドがどういうバンドかは「説明されるまでもない」という人も多いであろうが、「何ソレ?」という人も多くいることでしょう。そういう方々には各自ググっていただくとして、そういう一時代・(シューゲイザーという)一ジャンルを築いたバンドがいた(長きに渡り活動休止状態にあったが、現在では再始動してライヴなども行っている)、という前提で話を進めます。
まず、最近割と頻繁に感じていたのが、マイブラに限らず、ウィーザーのリマスター盤であったり、スマパンのリマスター盤であったり、そしてニルヴァーナのリマスター盤であったりと、自分がかつて慣れ親しんできた時代のアルバムの数々が新装盤としてリリースされ、そして過剰な神格化と共にそれらのアルバムが語られる時に、自分は常に違和感のようなモノを抱く傾向にあり、それは一体何故なのだろう?と考えてみたことがあった。
おそらくこうした「過剰な神格化」はリアルタイムで慣れ親しんできた人たちのノスタルジーと、それより後の世代、リアルタイムでは体験できず伝聞などのバイアスがかかった上で音に触れた人たちによって作られるのではないか、という風に仮定してみたいと思う。自分はそのどちらにも属さない「そこそこ優れたロックアルバム」という温度で「ラブレス」や「イズント・エニシング」に触れてきた人間である。こうした構図で考えると、「ミッドナイト・イン・パリ」には実に明快な答えが提示されていた。

詳細は映画のオチに触れることになるので避けるが、この映画も「ソーシャル・ネットワーク」がそうであったように「渦の中心にいると、その渦の大きさを測り知ることは出来ない」という映画であったように思う。ある大きな波、大きなムーブメントが起こった時に、その中心にいれば大きさには気付くことができず、その時に産み落とされた様々な作品、後に下された評価によってようやく思い知らされるものである。「ミッドナイト・イン・パリ」の主人公:ギルは、タイムスリップして出会った憧れの20年代を生きる女性:アドリアーナによってそれを悟る。「1920年代こそが黄金時代」と思っていた自分の節穴的感覚を、彼女の行動により「人の振り見て」と思い知ることになるのである。
ギルは脚本家との二足の草鞋ではなく、小説家一本でやっていきたいと考えている。フィアンセは「そんなリスキーな考えはやめて」と彼に安定した職をねだる。しかし、この「憧れだった1920年代のパリへの時間旅行」によって、ノスタルジーに耽溺することの良い面も悪い面も見えてしまったギルにとって、では自分が全くの無から創作物を産み出すにあたって何が一番必要か?という答えも、自ずと導き出してしまっている。
シニシズムで物語りを紡いできたアレンが、本作では自分より下の世代のクリエイターに、括弧付きではないエールを送っているように思えるのは、本来の意味での老成を表しているのかも知れない。

追記:
やっぱりこの映画の最大の魅力は、主人公ギルを演じるオーウェン・ウィルソンのチャームに尽きると思う。特に20年代にタイムスリップして、幾人もの文豪が束になってパーティーしている場面に出くわし、徐々に状況がわかってきた時の、あの顔!(上記画像)
そんな冒頭のコール・ポーターのパーティーで、「ここは退屈だから(!)抜け出そう」とフィッツジェラルド夫妻に促され、潜り込んだクラブが、もっとアンダーグラウンドな雰囲気で、ダンサーも黒人ならプレイヤーも黒人、リズムも重たい感じのジャズが聴ける、そういうクラブの方がヒップである、という描写が、あー昔も今も変わらないんだなぁ、と思った。