誰にだって“○○日の○○”「(500)日のサマー」


俗に「男は別名保存、女は上書き保存」なんていう言い回しがある。
恋愛関係において、終焉を迎えた際にその多くが「男の方が長いことその破局を引き摺り、女は綺麗さっぱり忘れて次の恋へ」という意味合いの事象を簡潔に言い当てた名言であると思うが、この「(500)日のサマー」はまさにそういった作品。
興味深かったのが、この作品が「ニューヨーク・ストーリー」というオムニバス作品の一遍、マーティン・スコセッシが監督した第一話「ライフ・レッスン」を彷彿とさせたことだった。
(←冒頭の10分が見れます)
ストーリーは、画家ドービー(ニック・ノルティ)の住居兼アトリエに、かつて彼の助手であり恋人であったの若い画家ポーレット(ロザンナ・アークエット)が、新たに恋人の存在があることを宣言しつつも「ドービーと寝ないこと」を条件に彼の元へ戻ってくる、というお話。
最近、知人女性から聞いた「女は一度嫌いになったらもう一生嫌い」という言葉を思い出すが、この映画でも「もう復縁はありえない」と心を決めている若い女と、未練と下心見え見えの中年男の、感情の水面下でのバトルが非常に面白い。この「ライフレッスン」は、「サマー」での主人公トム君が、振られた後でも執拗に食い下がったらどうなるか?を描いている作品とも言える。
そして面白いのは、一度関係が終わってしまった二人、ポーレットとドービーの意地の張り合いである。彼はそれなりに成功した画家であり年長であり、自分の威厳を誇示するように作品制作に没頭する。そんな彼の姿を見たポーレットが、かつて自分が愛したアーティスト:ドービーという男の姿を再び見出し、心がほんの少し揺らぐ様も描いている。
だがしかし、100人が見たら100人がそう予想するように、醜い言い争いの末、当然のごとく結局はまた別の道を行くことになるドービーとポーレットなのだが、「(500)日のサマー」には「あんたなんか死ね!」「お前の方こそ死ね!」といった、喧々諤々の目を伏せたくなるような衝突はほぼ描かれない。女が一方的に拒絶し、男が苦悩し、最終的にそれを受け入れた男が歩き出す成長譚として描かれる。この感覚、映画としての表現が、非常に現代的で興味深い。
「ニューヨーク・ストーリー」の公開が1989年。20年余りで、映画における恋愛を描く感覚も確実に進化/深化しているといえるだろう。


追記:個人的に思い入れのあるスコセッシについて少々補足するが、この「ライフレッスン」は他の二編(他の監督はフランシス・F・コッポラとウディ・アレン)が霞んでしまうぐらい、「ニューヨーク・ストーリー」の中でも際立った一遍となっている。
プロコル・ハルム「青い影」の使い方、アトリエを所狭しと動き回るカメラ(ドリー多様)、スローモーション、スポットライト的なフレームなど、スコセッシは確実に本作で何かを掴んだに違いないことが、自分のような素人目に見ても明らかだ。そして次作である「グッドフェローズ」で、その修練は結実、爆発することとなる。