キッズはオールライトじゃない「八日目の蟬」


愛人の子供を誘拐し、逃亡を続けた末に捕まった女。その女のことを実の母親だと信じて着いてきた子供。実の父と母の前には、他人の元で育てられた四歳の女の子が返された。
原作未読。
「優しかったお母さんは、私を誘拐した人でした」など、これでもかとセンセーショナルな売り方をしていた予告編と、映画本編では印象がまるで違っていて驚いた。予告を観たときの「いくらなんでも愛人の子供なんて欲しいか?」という単純な問いを「……そういうこともあるかもね」と犯人:希和子(永作博美)の心理に沿い、丁寧に外堀を埋めていく監督の手腕は中々のもの。事件の発端/顛末を提示する冒頭から、ある秘密を抱いた他者が割って入ってくる序盤までを、実に手際よく裁いて見せてくれる。
この映画は、主に二つの時間軸で構成されている。逃亡を続ける希和子と誘拐した娘(逃亡を始めた際は乳児)の過去のパートと、両親の元に戻され大学生となったその娘:恵理菜(井上真央)が、「事件を取材したい」と申し出るライター(小池栄子)の妙なペースに巻き込まれ、ゆきがかりで自らの過去を巡る旅へと出発する現在のパートである。
過去の逃亡パートにおいて特に印象的なのは、女だけが入団を許可されるカルトめいた団体:エンジェルホームという施設での暮らしぶりと、その逃亡の旅が終わりを迎える小豆島での生活である。
物質文明を否定し、エンゼルさんという教祖(余貴美子が絶妙なテキトーさで好演)が提唱する理念の元に生活を続ける徹底的に閉じた感じと、小豆島の小高い丘から眺める瀬戸内の海の美しさ、神秘的な島の祭りなどの美しさ(アニミズムと言っても良いかもしれない)を、対比として描いている。それに加えて、過去のパートと現在のパートで同じ場所を切り取る手法は、そこに流れた時間の重さを否が応にも感じさせてくれる。
ふと、この構造は(それぞれの登場人物の位置づけこそ全く異なるが)「砂の器」と同じではないか、ということに気が付いた。幼子の手を取り、お遍路を行く加藤嘉は永作博美であり、事件を捜査する丹波哲朗と森田健作は、井上と小池である。当然、観た人の涙をこれでもかと搾り取ったホームでの別れに匹敵するシーンも、「八日目の蟬」のクライマックスで登場する。
原作がどうなっているかは未読ゆえに比較は出来ないが、本作では徹底した男性不信が描かれている。主に登場する男性キャラクターは、災いをもたらす者か、そうでなければ添え物か、あるいは子供か性別を超越した魔法使いのような存在(写真館の主人)だったりする。これは非常に興味深く、内田樹が「プレシャス」のパンフレットで触れていた「意図して作られた男性嫌悪映画」というテキストを思い出した。
先に少し触れた、クライマックスの別れのシーン。逮捕しようと待ち受ける刑事たちと、それを遠目に見て察する犯人と、事情をまったく理解していない子供。犯人は刑事たちに子供に対しての「あるお願い」をして、お辞儀をして観念する。これは、海外の映画文法などには観ることが出来ない、日本の二時間ドラマ/邦画特有の「型」と言ってしまって良いのではないかと思う。そんな所に触れ、自分が日本人であることを再認識した作品でもあった。

八日目の蝉 (中公文庫)
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