(イッツ・ア)ファミリー・アフェアー 〜腑抜けども、悲しみの愛を見せろ〜

腑抜けども、悲しみの愛を見せろを観ました(@109シネマズMM)。

例えば小津安二郎の「東京物語で提示された「家族の崩壊」。広島から息子・娘達を頼って上京してきた老夫婦は、東京で既に新たな家族、そして生活を築いている子供達の下をたらい回しにされた挙句、二人きりで熱海までやってきて(こさせられて)、尾道に帰ってくれば妻が亡くなり、他人である息子の嫁だけが一番胸を痛めるという皮肉。他方で小津が描き続けてきた、「娘を嫁にやるまで」の幾多にも及ぶヴァリエーションは、その崩壊の前段階にあたる「別離」。子供が家庭を出て行くこととは別離でもあるが、結婚などによる「新たな家族を築く可能性」も擁しています。
では今日、過疎地の家庭における大多数の「別離」とは何か?それは新たな家庭を築くわけではなく、「都会に進学」もしくは「都会で何かをしたいから」という、子供の自由意志を尊重したものでしょう(まぁ曖昧な上京理由を巡って決別、っていうケースも少なくないでしょうが)。
「腑抜けども〜」は、両親を交通事故によって失うという、事実上家族の主要メンバーが消滅するシーンで幕を開けます。女優になるため自ら家族を捨てたくせに別離しきれない出戻りの長女、それを気にかける長男とその妻、そして、そんな姉を試験管の中の被験物とばかりに冷淡に観察し続ける次女。この4人が、家族という名の幻想を追い求めたり切り捨てたりするドラマです。
舞台が石川県の山村に設定されていることもあるので、松ヶ根乱射事件以前の感想)」を思い出す方も多いでしょう。しかし、どちらかというと「風土が人を育む」といった感のある「松ヶ根〜」に比べ、「腑抜けども〜」は「そんな人がそんな風土に生まれちゃった」という毛色のほうが強いでしょう。
そんな人とは、佐藤江梨子演じる長女:澄伽のこと。自己顕示欲が強く、そのくせ内面はスッカスカで、でもバイタリティと行動力に溢れているが恐ろしく他力本願、という破綻したキャラクターを、サトエリがほぼ完璧にこなしています。「あたしアルバイトまでしてんのよ!?」「もしかしてあたしイジワルされてます?!」などなど、数々の名言が恐ろしいほどの説得力を持って彼女の口から発せられます。長男:宍道の倦怠/挫折屈折/ドン詰まり感を、永瀬正敏がこれまた絶妙に演じていて感心しました。
04年の下妻物語に端を発した“ローカルであること”を掲げたいくつかの作品。今年だけでも「松ヶ根〜」、そして本作。以降はしばらく出がらしのような「田舎エクスプロイテーション」が続きそうな気もしますが、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」は、そうしたテーマをよりポップな形で提示したみせた強度さゆえに、ターニングポイントとして記憶されるべき作品であると思います。
およそ半世紀前に小津が掲げた「家族の崩壊」。その意味合いは異なるにせよ、長男の嫁を演じた永作博美原節子が重なって見えました。