実家に帰らせていただきます! 〜ゾディアック〜
「ゾディアック」を観ました(@TOHOシネマズ横浜)。
連続殺人事件が起きる。被害者同士に接点は見受けられない。無差別連続殺人。捜査は広域に渡り、思うように捗らない。捜査陣は七転八倒しながらも、わずかな手掛かりから、限りなく“黒”に近い人物を割り出す事に成功するが・・・
お話の基本的な構図は、ポン・ジュノの大傑作「殺人の追憶」とほぼ同じ。「殺人の追憶」では86〜91年の韓国、軍事政権下の時代を中心にお話が展開していきましたが、「ゾディアック」の場合は69〜90年初頭のアメリカ:西海岸が主な舞台となっています。69年と言えば、ウッドストックとオルタモントの悲劇があった年(ストーンウォール暴動も69年)。そして70年代に入ってからもウォーターゲイト、ベトナム泥沼化→撤退、ジョーンズタウンで集団自殺(ゾディアックが最後に手紙を送り付けてきた78年)、などなど、様々な事件が起こりました。
そうした事象を、デビッド・フィンチャーは作品の中で具体的には描かず、あくまでも“時代の空気”としての再現を試みています。それは当時のファッションであったり、建築であったり、そして流行歌だったり。執拗なリサーチによって成されたであろう、70年代の再構築は特筆すべき物であり、ゾディアックに振り回される様々な人々への感情移入を、2007年の日本人の目線ですら容易にしてくれます。
特に前半の主な舞台といって良い(「大統領の陰謀」などを参考にしたとのこと)、サンフランシスコ・クロニクルの編集部のセットが何とも見事です。
そして、劇中でも象徴的な映画が取り上げられています。ゾディアックをモチーフにした犯人が登場する「ダーティハリー」。しかしながら、道理の通じぬ輩を「ゴー・アヘッド、メイク・マイ・デイ」とマグナムでブチ抜く痛快さとは対極にある作品が「ゾディアック」です。
「セブン」で一躍名を上げたフィンチャーにしてみれば、期待されるのがそのシリアルキラーの内面描写でしょうが、「ゾディアック」では、犯人の内面についてはほぼ描かれることは無く、その代りに、事件に関わりを持ち、(本人も気付かぬうちに)人生の歯車をちょっとづつ狂わされていく人々を巧みに描いていきます。振り返ってみれば「セブン」での「誰もが嫌悪感を憶えるであろう幕切れ」からして、「(制作年である)95年におけるハリー・キャラハン的モラルの不可能性」を暗示していたフィンチャーですが、「ゾディアック」では、「どんなに納得が行かない理不尽な事があっても死ぬまで人生は続くしそれを生きていかなければならない」という、言わば諸行無常ともいえる境地にまで至っています。
70年代という時代に起こった事件を、現代の俳優を巧みに配置して、現代のセットに再現させる。作家としてのフィンチャーの成熟が伺える、彼の代表作の何本目かに刻まれるであろう1本だと思います。
追記:「バブル・ボーイ」を観ていると、最後の初対面のシーンは、何とも感慨深いものがありました。