大学教授の澱んだ一日「シングルマン」


デビュー当時のレニー・クラヴィッツは、まるで何かに取り憑かれたように「70年代の音」の再現に固執していた。ヴィンテージの機材/楽器/スタジオを使用し、レコーディングの際には70年代っぽい音を奏でるミュージシャンを起用。「ただの懐古主義じゃないか」「ツェッペリンの焼き直しじゃないか」などという批判には耳を傾けず、ただただ「70年代ロック“そのもの”なってしまいたい」とばかりに邁進した。その結果、産み落とされたのが彼の2nd「ママ・セッド」であり、そして大ヒットアルバムとなった3rd「自由への疾走」であるように思う。
ファッションデザイナーのトム・フォードが初監督として選んだ手法も、恐らく上記のような異常なまでの偏愛がベースになっているのだろうと強く感じた。彼は、60年代のデザインの先鋭の再現に徹底的に固執し、「60年代の映画の世界“そのもの”になってしまいたい」とばかりに、この「シングルマン」を撮りあげた。
しかしながらフォードは、60年代の再現を謳いながら、単なる懐古主義には終わっていない。そこには、ある現代的な感覚をすり込むことに成功している。彼が何を意識的に描いたかと言えばそれは「60年代に」「郊外生活者で」「ゲイである」という三つの重要なポイントである。
60年代当時に「ゲイの大学教授が主人公」などという映画は、非常に大きなタブーであり、まず企画自体が通らなかったはずである。もし実際に撮ろうとするなら、人種問題を扱ったカサヴェテスの「アメリカの影」のような、自主制作という道を選ばなければならなかったはずである。自らもカミングアウトを済ませているフォードは、ある種の真摯さと切実さを持って、クリストファー・イシャーウッドの原作に取り組んだ。
劇中、死んでしまったボーイフレンドを回想するシーンで、主人公である大学教授とボーイフレンドのこんなやりとりが提示される。
「ガラス張りの家に住む覚悟はあるのかい?」
「窓にカーテンをすればいい」
60年代という時代において、郊外生活者でありゲイであるということは、好機の目に晒されることを意味している。たったこれだけの会話で、自らが置かれた状況に対しての、堅物であり年も中年に差し掛かろうかという主人公と、奔放かつフレキシブルな年下の彼との対比が、短いながらも雄弁に語られる名シーンであると思う(これが本当に初監督作か?と疑いたくなるほど)。
物語がスタートしてしてから終始一貫していた「60年代の郊外でゲイであること」の、生き辛さや厭世観は、あるささやかな贈り物により、最後の最後のほんの一瞬に、いとも簡単に「そんなものは本人の気持ち次第」と転じてしまう。だがその後に待ち受ける、皮肉としか言いようがない、ほろ苦い結末。その儚さ、美しさに、トム・フォードという未来の大監督の偉大な一歩を見た気がした。