その愛は郊外から都市へ「エデンより彼方に」と「キャロル」


 トッド・ヘインズの2002年の監督作「エデンより彼方に」で、プロダクションデザインを担当したマーク・フリードバーグは、撮影時を振り返り以下のように語っている。
 「(ヘインズから)舞台装置っぽくセットを作ってくれ、と言われて驚いた。普段、他の監督からオーダーされるのはその逆だからね」
 「エデンより彼方に」は、夫の同性愛と、アフリカ系の庭師の間で心が揺れ動く、郊外に暮らす主婦が主人公の作品であるが、メロドラマの名手として知られるダグラス・サークの諸作品をヘインズなりに再構築した作品であり、一言で例えるなら「(サークの作品に代表されるような)50年代メロドラマ“そのもの”になってしまいたい」という願望が炸裂した「異形の偏愛映画」である。

 「エデンより彼方に」は、作品で描かれた1950年代には現行作品としてタブーとされていた要素(ゲイ・イシューとレイシャル・イシュー)を、サブテキストではなく直接描写として盛り込むことで、50年代に郊外で暮らすということがどういうことであるかを浮き彫りにした、ヘインズの出世作であり意欲作である(同様の手法で、近年ではトム・フォードの初監督作「シングルマン」が記憶に新しい)。
 「エデンより彼方に」は、とにかく50年代映画の再現としてのセットや衣装、そして照明など「画面に映るもの」への作り込みが凄まじく、その情熱たるや…というか、情熱というと聞こえが良いが、それはほとんど偏執レベルの愛である。こうした作家のある種の狂気は見過ごされ、所謂「ティピカルなメロドラマ」として消費されてしまっていることが、この映画をやや特異な作品としえ位置付けているように思う。上記のフリードバーグの発言が、その特異さを裏付けている。

 そして「エデンより彼方に」から13年を経て、パトリシア・ハイスミス原作による、そのものずばり同性愛をテーマにした「キャロル」が完成した。「エデンより彼方に」では、時代の制約で暗に仄めかすことしか許されなかったテーマを、その時代のスタイル、当時は排除された要素を取り入れ「何がタブーであったのか」を強調して描いたヘインズが、「キャロル」では、デパートの売り子で若いテレーズと、離婚を間近に控えた子持ちのキャロルという、二人の女性が通わせる愛を、正攻法の恋愛映画として描いている。
 郊外生活者の虚飾や孤独を描いたのが「エデンより彼方に」であったとすると、一方その頃、都市生活者はどうであったか?を、ヘインズは「キャロル」で描いてみせた、とも言えるだろう。

 「エデンより彼方に」では、主演のジュリアン・ムーアや、隣人を演じるパトリシア・クラークソンといった人たちが、所謂50年代的な「臭い」芝居とモダンで繊細な要素を織り交ぜたようなスタイルの芝居をしているのに対し、ムーアの夫役であるデニス・クエイドだけが、終始大仰で、まさに50年代という芝居を見せている。一際印象深いシーンは、自らの同性愛属性を自覚した夫が精神科に通うも、そんなものが治るはずはなく、それでも試しに妻を愛そうと半ば無理矢理にソファーに押し倒すが、嫌悪感からかその妻に手を上げてしまう、というシーン。ここでエルマー・バーンスタインの劇伴は、夫が妻に手を上げたその瞬間…
 「テテテーン!」
 と、あたかもコントのように高らかと鳴り響く。しかし、不思議なことにそれほど違和感は感じない。ヘインズが巧妙に作り上げた「1950年代のメロドラマ」という箱に、2000年代の俳優を収めているからである。

 その点「キャロル」ではどうか?カーター・バーウェルによる劇伴は、まるで現代を舞台にした作品のように、繊細かつ流麗に、そして決して目立ち過ぎずに、映画を盛り立てている。
 演技面ではどうか?キャロルを演じるケイト・ブランシェットにせよ、テレーズを演じるルーニー・マーラにせよ、現代劇とさして変わらないテンションで50年代に生きた女性を演じている。例を挙げるなら、50年代の作品であればもっと説明的な描写になったであろう、テレーズが電車で涙を流す序盤の印象的なシーンも、様々な感情を憶測できるような余地を持たせている。
 テレーズとキャロル、二人のゲイの女性の目線から伝わってくるのは、ヘテロセクシャルであることが大前提であった時代の「生き辛さ」である。テレーズのボーイフレンドの身勝手さ、自分を性的対象とみなすテレーズの友人男性、そして同性愛を一時の気の迷いと思っているキャロルの夫。そんな中、事態を全て把握し、それでいて社会との折り合いもつけているキャロルの親友アビー(サラ・ポールソン)は、まるで二人を見つめる守護天使のようでもある。

 そして敢えて現代的ではない点を挙げるなら、惹かれあっていることは観客にも充分想像がつく二人が、実際に肌と肌を触れ合わせるラヴシーンに至るまでに、結構な時間を、50年代的なゆったりとした尺を要するのである。これはおそらく、かつてのメロドラマの「間」であり、もしかすると「品」とか、そうした言葉に置き換えられるのかもしれない。観客は、二人が困難を強いられた時間を共に体験し、ラストで幾多の障壁を超えた二人が見つめ合うように見て、お互いのその胸の高鳴りを耳にするのである。

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