表現者のアラセブ問題 「トゥ・ザ・ワンダー」


 「寡作」として知られる巨匠の劇場長編作を、まさか2年程度の期間でまた観られるとは思ってもみなかったので、鑑賞前には多少の戸惑いがあった。
 しかし蓋を開けてみれば、前作「ツリー・オブ・ライフ」のテイストを踏襲しつつ、あの作品でも象徴的だったサバービア色をより色濃くして、かつシンプルにしたような映画になっていた。主な舞台として登場するのは、男と女が出会ったパリの様々な名所、その後に移住するアメリカはオクラホマ州?の新興住宅地、この二つぐらいである。
 物語の輪郭ははっきりとしない。登場人物の背景もわずかな情報しか語られない。もしかしたら、出演する役者にも知らされてはいないのではないだろうか?

 というのも例えば劇中でベン・アフレックとオルガ・キュリレンコは色々なシチュエーションでイチャイチャしたり、そうでない場合は二人で激しく言い争い衝突する。この二人の動き。ある一定の距離感を保ち、そして突然振り返ったりする(カメラの位置を確認している?)動作が、「筋書きや設定などに束縛されない役者の自然な動き」というよりは、「コーチの指示が上手く伝わっていないが為に本領発揮できないアスリート」のようで、かえって不自然な動きになってしまっているように思えた。これが果たして、演出家が自身のスタイルを過信するがゆえなのか、縁者のスキルの未熟さゆえなのか、判然としないが、この上記二人を「動」とした時に対比となる「静」を担っているのが、ハビエル・バルデム演じる神父である。

 哲学的・神学的テーマを追求してきたマリックにとって、これはある意味、マリック自身の「分身」と言っても良いキャラクターであろう。本作での神父は非常に疲れている。折れてバラバラに散ってしまいそうな心をギリギリで繋ぎとめているとも言えるだろう。矛盾や欺瞞が横行する現代において、懐疑的になりながらも信仰を貫かなければならないプレッシャーをたった一人で体現しており、そのスタティックな佇まいに、観る者は激しく心を揺さぶれる。
 しかしながら、この「動と静」の対比は、本当にそれが有機的な表現と言えるのだろうか?こうして私は、前作「ツリー・オブ・ライフ」の時に直面したような感想に、また立ち戻るのである。
 先日新作を発表した宮崎駿は、マリックより2歳年上の72歳。自分は「風立ちぬ」に圧倒的な物足りなさを感じたが、表現者の高齢化/巨匠化による「受け手が色々汲み取ってくれる」という問題は、実は結構、根が深いように思えてならない。