(500)日の有紀「ばかもの」

群馬県・高崎市。
地元大学に通い、気ままな生活を送るヒデこと大須秀成、19歳(成宮寛貴)は、近所のおでん屋「よしたけ」で店の女将(古手川祐子)の娘・吉竹額子、27歳(内田有紀)と初めて出会った。
数日後、偶然同じバイト先に勤めていた額子がヒデに声をかけ、2人は再会する。再会したその日に、額子はヒデを部屋に連れ込み、半ば強引に童貞を奪ってしまう。年上女性の奔放さに戸惑いつつも、ヒデは額子の魅力にのめりこんでいく……。
(公式サイトあらすじより)

原作未読。
恋愛関係にあった男女の別れのおいて、一番求められるもの。それはおそらく、劇的な人間関係の変化に対する対応能力というか、それを許容できるだけキャパシティー、のようなものであろう。
上記「ばかもの」あらすじのその後を少しだけ補足すると、主人公:秀成は、額子から突然の、その後もトラウマになるような酷い別れを告げれられる。そして、彼自身が直接語るような場面はないが、額子と別れたその後から酒浸りの日々を送るようになり、それが更に進んでアルコール依存症になり、妹の結婚式を酒に酔って暴れて台無しにして、親からは勘当され、新しい恋人から見限られ、おまけに飲酒運転で交通事故を起こす、などのダウンワード・スパイラルが続いていく。
しかし物語の終盤、秀成と額子のふたりは再会を果たす。初めて出会った時から10年の歳月を経て、別れのその時にはお互い予想だにしなかったであろう、それぞれの10年間を背負って。
秀成の家族は「あの女(額子)のせいでお前はおかしくなった」という。「そんなことはない」と頑なに否定する秀成。おそらくは彼自身も、本当にそうだったのかという結論を出しあぐねているし、確かめようにも確かめる術はない。そうだと思い込めばそういうことになるだろうし、そうでないと思い込んだところで、その後に歩んできた人生は何も変わりはしない。一度、決定的に変わってしまった男女の関係というものは、決して元に戻ることはなく、お互いのお互いを想う/想っていた気持ちは着地点を見いだせず、ただ中に漂うのみである。
10年の歳月を経て、秀成と額子は、お互いにお互いのことを「忘れたことはなかった」と、やっとの思いで真情を吐露する。人間という生き物は、ここまで劇的な変化を伴う再会でないと、本音をぶつけ合うことができないのか、という、非常に哀しくも美しいシーンである。
まさかこの映画に、90年代後半〜00年代の総括をされるとは思ってもみなかった。そのちょっとダサい作りも含め、「邦画ってこうだったよな」と思い起こさせてくれる、良心のある佳作。あの時代に大人になった全ての日本人に観て貰いたいし、この間に亡くなってしまった全ての人たちにも、この「ばかもの」を捧げたい。

※以下蛇足。ヒロイン:額子を演じる内田有紀が徹底してヌードにならないのは色々な大人の事情があるのかもしれないが、もしそれが彼女サイドの人間の判断であるなら、見せ物的なヌードと、物語としての必然性のあるヌードとが、判断もつかない程に芸能に携わる人間に作品を読み解く力がなくなっているのか、と、ちょっとばかり悲しくなった。特に最後、額子が秀成に要求したことを、カメラが直接描写として切り取っていたならば、間違いなくこの「ばかもの」のステージはいくつか上がっていたはずなのに。

ばかもの (新潮文庫)
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絲山 秋子
新潮社
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