文化的に暮らす、ということ。「ハーブ&ドロシー」


「趣味を持つ」ということ。20世紀になってから、恐らく一般の庶民にも、前世紀では考えられなかったであろう、多岐にわたる「趣味」を持つことが可能になったのではないかと思う。
それは読書にしろ音楽鑑賞にしろ、それから映画鑑賞や演劇鑑賞、スポーツ観戦だってそうだと思う。生まれ育った環境や、収入の差などで違いは出てくるであろうけど、多くの人が、毎月の賃金から生活費を引き、残ったお金で「自分が楽しみたいことにお金を払う」ということが可能になったのが20世紀以降なのではないか。
つまり、乱暴に言ってしまえばスタート地点は同じ。以降はその対象への興味の持ち方・関わり方に対してどれだけ自覚的でいられるだろうか、という違いである。なんとなく、見たり・聞い/聴いたり・集めたりというだけではなく、その作品の置かれた位置、作家の考え、そのシーンの流れなどを考慮すること。スポーツであれば、その試合の持つ意味・出場している選手の成績、指導陣やチームのバックグラウンドなどを加味して観戦に挑むこと。裏に潜む情報は山のように転がっている。そうしたことを意識しながら、趣味と対峙するということは、一体どういうことを意味するのか?「ハーブ&ドロシー」にはその答えが描かれていた。
本当にそれが好きなもので、なおかつそれを追求するのであれば、そんなものはふと気付いた時点では既に片足を突っ込むどころか両の足の胴長もビシャビシャになるぐらい、ドップリとはまり込んでいる物である。つまりそれは「無意識の覚悟」のようなもの。無意識なので当然、茨の道を歩んでいる意識はなく、当人にとってはいつまでも続くゆるやかなフワフワとした芝生の道なのである。
ハーバート・ヴォーゲル。彼は高校を中退し郵便局で仕分けの仕事をしながら、独学でアートを学ぶ。のちにハーブと結婚するドロシーは、当時、図書館の司書として働いていた。二人とも、正規の美術教育を享受した者ではない。「ハーブ&ドロシー」では、そんな二人が出会い、二人は文化的なデート=映画を観たり、芝居を観たり、クラブで夜更けまでジャズを聴いたり、ギャラリーを回ったり、そうした共通の趣味が高じて二人はオリジナルの美術作品の制作を制作するようになり、そして制作から美術作品の蒐集に移行していくまでが、実にスムーズに描かれる。
彼らは無名の美術作家たちと交流を深め、絆を深めていく。職業からして、決して裕福とは言えない暮らしを送るハーブとドロシーにとって、彼らが購入できる作品は限られている(彼らのポリシーは「収入で買える範囲のもの、アパートに収まる小品の購入に止めること」)。資金面では応援はできないが、彼らに話を聞き、作品の意図する真意を探り・そして理解し、自分たちに出来る範囲で有能な若いアーティストをバックアップしたい。その真摯な願いは、さながら「精神的パトロン」のようだ。
映画では、そんな彼らが自分たちのアパートメントに作品が所蔵しきれなくなり、ナショナルギャラリーが「ヴォーゲルコレクション」として引き取る、という非常に異例で、かつ感動的なエピソードも語られる。これは、正規の美術教育を受けていない、市井の1(正確には2人で“1”)コレクターが、アメリカの美術界に認められた瞬間であり、プロとアマチュアの線引きを改めて問うような、重要な事件であったのではないだろうか。
20世紀〜21世紀に生きて、文化的な生活を享受する人たちのことを考えると、自然とウィキペディアのことを思い出す。ウィキペディアを新たに項目立てたり、更新する人たちは、皆、見返りなどを求めない、善意の人々である(稀に例外もあるが)。彼らは「正しい情報を伝承・共有するために」ページをアップデートする。ハーブとドロシーがナショナルギャラリーに寄贈した最大の理由が「他のギャラリーに転売したりしない、という条件が条項に盛り込まれていたから」であり、膨大な量のモダンアート作品の寄贈に対して、謝礼という形でナショナルギャラリーが幾らかのお金を贈ったとき、彼らはそのお金でまた作品を買い足したという。「使命」というものは、そうした感覚に鈍感であるほど、偉業に結びつくのではないか。そんなことを「ハーブ&ドロシー」を観て考えた。

The Collectors(1977) Will Barnet