成長譚として語られる“少女” 「17歳の肖像」「プレシャス」

17歳の肖像

勝気で有能な若者が苦い挫折を味わい、再起をかけて最後の戦いに挑む……ってこれジャッキー映画じゃないですか!(若者が見限るのが“学校”で、学校では教えてくれないことを教えてくれる“導師”を慕うが、彼の暗部を垣間見て最後には対峙するはめになる、という構造上の共通点も多数あり)
異なる点を挙げるなら、見限るのは拳法を学ぶ寺院ではなくロンドン郊外の高校で、導師は30代の男性で、主人公はジャッキー・チェンではなく17歳の女子高生であるということ。
つまりは普遍的でありながら、時代設定(61年という所謂“スウィンギン”前夜)であったり、人物設定:「年上の彼が何やら胡散臭い仕事に関わっている臭い」であったり、そうした要素で軸を少しづつずらして語られる物語は、ある種の新鮮味をもたらすこととなる。主人公である語り部:ジェニーを演じるキャリー・マリガンしかり、彼女を新たな世界へ誘うピーター・サースガードしかり、ジェニーの両親しかり、主要な役どころを演じるキャストが皆、魅力的であることも、一見凡庸に思える物語に華を添えていると思います。
後半のキーとなる人物、オリヴィエ・ウィリアムズ演じる国語(?)のスタッブス先生のカッコ良さに悶絶しました。



「プレシャス」

そりゃあアレですよ、歳はほぼ同じながら、先の画像のキャリー・マリガンと、(言葉は悪いですが)アフリカ系ジャイアンのような女の子、どっちが感情移入しやすいか、って話ですよ。
その外見もさることながら、この映画の主人公:プレシャスは、父親の性的虐待により二人目(!)の子供を妊娠していて、いわゆる「文盲」であったりと、最初から「観客が感情移入できる度合い」のハードルを、物凄く高く設定してあるのです。
先の「17歳の肖像」と大きく違う点もあって、それは「自ら選択肢を選べる人/選択肢を提示してあげないと選べない人」という違いで、ここに時代性の違い(「17歳の肖像」は61年、「プレシャス」は」87年という設定)はあまりない。しかしながら、子供を育てる親の「教育」観には、計り知れない程の隔たりがあります。
「娘をなんとかして良い大学に入学させてやりたい」と願う「17歳の肖像」のジェニーの両親と比べると、「学校なんて生きていくうえで何の役にも立ちはしない」という考えを根本に持つ、プレシャスの母親:メアリーの人物造形はかなり凄まじいものがあります。黒人に生まれたが故の卑屈さ、その苦境を生き抜くために染み付いた狡猾さ、諦めから生じるシニカルさ、等々、それらが渾然一体となって生み出された、まさに「怪物」といっても過言ではない人物として描かれています。特に、クライマックスのソーシャルワーカーとの面談であらわになるメアリーの本心は、自己憐憫と自己欺瞞がない交ぜになった、何とも形容しがたい「塊」のようもの。このシーンを見事に演じきったモニークのオスカー助演女優賞獲得はまさに納得の一言です。
怪物のような母親による障壁と、後半で彼女に降りかかる、抗いようのない不運。それを躍起になって抵抗するでもなく、かといって母親のように後ろ向きに諦観するでもなく、全てを受け入れるプレシャスの姿は率直に応援したくなるもので、物語のスタート時に設定された高いハードルを見事に飛び越えているように思えます。こうした観客側の変化を考えると、本作に少女の成長譚としてのある種の革新性を見出すことも可能かもしれません。
内田樹先生がパンフレットに寄稿している「『プレシャス』はおそらく映画史上初めて意図的に作られた男性嫌悪映画」というテキストが非常に面白かったです。

「プレシャス」では代替学校のクラス全員で美術館を訪れるシーンがありますが、これは恐らく「いつも心に太陽を」に対するオマージュでしょう。この映画が「17歳の肖像」とほぼ同時期のロンドンの貧民街の中等学校を描いた作品であり、教師が黒人という設定は、この三作を並べると色々と感慨深いものがあります。
「いつも心に太陽を」