父性の不在と、父性の代替の存在 「ベンジャミン・バトン」

ベンジャミン・バトン 数奇な人生を観ました(@TOHOシネマズ横浜)。

※内容に触れていますので未見の方はご注意下さい。
デヴィッド・フィンチャーの出世作「セヴン」。得体の知れないシリアルキラーと対峙する事になった新米刑事と初老の刑事。彼らは事件を通して師弟関係を築き上げるが、事件の幕引きに際し、弟子は犯人に対し刑事としてあるまじき行為を犯す。それにより師である男は、まるで息子に注ぐような無償の愛情を持って、彼の今後の人生を引き受ける決意をして映画は幕引きとなる。
チャック・パラニューク原作の「ファイトクラブでは、冗談交じりのこんなやりとりが確認できる。「大学も出たし会社にも入った。父さん、次は何をすればイイ?」「そうだな、そろそろお前も家庭を持つべきだな」
パニック・ルームでは言わずもがな、シェルター装備の高級アパートメントで強盗と対峙するのは、両親ではなく片親、しかも父親ではなく母親で(現代ではさして珍しくもないが)、非常に象徴的な設定となっている。
この様に、デヴィッド・フィンチャーという人が今まで手掛けてきた作品には、かなりの割合で「父の不在」、あるいは、その代替となる「父親代わり」となる人物の存在が語られているような気がします。
今回の「ベンジャミン・バトン」では、その要素がより一層強く表れたというか、曰く「ライフ誌のライターだった私(ファンチャー)の父にベンジャミンを重ねた」という、観ようによっては彼の「父親像」というものが非常にパーソナルな形で表れている作品になっているように思えます。
お話の大筋は「老人の身体で生まれ、歳を重ねる毎に若返っていく男の一代記」。ボタン製造で富を得た富豪の家に生れ落ちるが、父親はその容姿の醜さに驚愕し、老人ホームのポーチに置いてきてしまいます。そう、のっけから父の手によって捨てられるのです。その後も、育ての親であるホームの院長を務める女性のボーイフレンド(シェイクスピア好き)と親交が深まるのかと思いきや、彼も気がつけば(育ての)母親のもとから消えている。漁船で働くようになった彼は、船の船長に連れられた売春宿で性の手ほどきを受ける。深い絆で結ばれたかのように思うのも束の間、二次大戦開戦に伴い戦闘に参加した漁船の上で、船長は戦死してしまう。そして極めつけは、幼なじみのデイジーと結ばれ子供を設けたベンジャミンが、今度は家庭を捨てる、という、まるで因果応報とでもいうべき展開になるのが、後半の見せ場となっています。
「歳を取るごとに若返る男」という、奇異な設定を借りて語られるのは、その奇異さに反して非常に淡々としたメロドラマ的なお話で、全編を通じてベンジャミンという男の内面はほぼ語られません。これは恐らく、男として生まれた者の多くが抱く、父親に対する「自分と同じぐらいの年齢のとき、私の父はどんなことを考えていたんだろう?」という、理解したくても決して完全な形で理解する事は無い、近づきたいけど近づけない/近づきたくない、畏怖の念の様な憧れ念の様な、複雑な心境の表れなのでしょう。

シンプルなストーリーテリングに徹する代わりに、この↑カットをはじめ、どのカットもフレーム毎の作りこみ具合が尋常ではない。シンメトリーな画作りも多く、いつも映画作りにおいて「キューブリックならどうするか?*1を念頭に置いているフィンチャーの、ヴィジュアル面でのテイストが色濃く出た作品といえるかも知れません。



*1:もう一つは「スピルバーグならどうするか?」