“認識違い”という名のディスコミュニケーション「レボリューショナリー・ロード」

レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまでを観ました(@109シネマズMM)。

サム・メンデスという監督は、一貫して「ディスコミュニケーション/コミュニケーションギャップ」をテーマに掲げている監督ではないかと思います。
大前提に家庭崩壊があり、そこから派生する各々の思い違いが決定的な一家離散に繋がる悲喜こもごもを描いたデビュー作「アメリカン・ビューティー」。ファミリーマンは実は“別のファミリー”の顔役で、逆恨み的な報復に遭い親子で逃亡する羽目となる二作目「ロード・トゥ・パーディション」。殺人マシンとして人生をリセットされ、戦場に送り込まれたはずだった若者が、人一人殺すことなくリセット前の平凡な日常に送り帰されてしまう三作目「ジャーヘッド」。どれもが「こんなはずじゃなかった」という、認識違いから生じた物語を、様々な視点、様々な観点から描き出すことに成功しています。
本作「レボリューショナリー・ロード」でも、やはり上記テーマに変わりはなく、夫婦/家族という観点から描くことによって、より普遍性と強度が増したように思われます。
1950年代の郊外。彩りにかける暮らしによってアメリカという国全体に違和感を見出し、パリへと海外脱出を試みようとする若夫婦の、一般の価値観や人生観への認識の違い。それを理解して貰えない、近隣住民との認識の違い。そして、その認識の違いに認識の違いを見出してしまった、夫と妻の認識の違い。唯一、夫婦の真の理解者というような位置づけで登場する、精神を病んだ元数学者との心の交流が描かれますが、それすらやはり認識の違いであることが、終盤に非常に陰惨な形で提示されます。
美しい情景を捉えた場面や、感傷的/感情的な場面で必ず流れるのが、トーマス・ニューマンのピアノによるミニマルなスコア。これも「アメリカン・ビューティー」の頃から一貫している手法であり、もはやメンデス節と言ってよいでしょう(この音楽の効果が、観客に所謂「引き」の視点を促している)。
「郊外→倦怠→スワッピング」というと、1970年代のアメリカの郊外を舞台に同じようなテーマを描いたアン・リーの「アイス・ストーム」があります。「レボ〜」には、「アイス・ストーム」に登場する大人たちの幼稚性の萌芽を見たようで、何だか興味深かったです。