廃モールと冷めゆく愛「ゴーン・ガール」


※内容に触れています。
 妻:エイミー(ロザムンド・パイク)が失踪するその日の朝、夫:ニック(ベン・アフレック)が、わが町セントルイス州カーセッジを見渡すカットがある。そこでニックは、横断歩道を渡ろうとするホームレスの集団に目をやる。
 ニックは妹がきりもりするバーに寄り、それから自宅に帰ると、妻の姿がない。家には争った形跡が。警察に連絡し、取調べを受けるニックは「自分のことなんかより、うちの近所はホームレスも多いし、そっちを調べたらどうなんだ?」とそれとなく切り出す。
 警察側はあくまでもルーティンとして、かなり後回し気味に、ホームレスの溜り場になっているという閉鎖されたショッピングモールに向かう。ここでエイミーは密売人から銃を買っていたことが判明するのだが、このシーンの異様さに自分はちょっとした衝撃を受けた。

 入口からして不穏な空気が漂う廃モールに足を踏み入れると、かつては幾多の利用客で賑わっていたはずの華やかさは消え去り、只ひたすら暗く広大な洞窟のような空間が広がっている。刑事二人が懐中電灯を手に探索を開始すると、そこには無数の人影が蠢き、光をあてると皆そそくさとそこから立ち去るといった具合だ。まるで動物か昆虫のようである。この廃モールのシーンは、シーンとしては短く、妻エイミーが「夫に殺されるのではないか?と疑念に駆られ護身用の銃を買いに行った」という事実を裏付ける、それなりに重要なシーンではあるが、「密売人から裏が取れた」と刑事に捜査状況を語らせればそれで済んでしまうようなシーンでもある。ではフィンチャーはなぜこの異様なシーンをわざわざ入れたのか?
 原作は未読なので、この大場正明氏のレビューを読んで知ったことだが、この「ゴーン・ガール」のエイミーとニックが出会い結婚し蜜月を経て、そしてついには会話もなくなるような険悪な関係に陥るまでの五年という間に、おそらく2008年が含まれている、というのは原作の重要なテーマだったはずである。言うまでもなく、これまで様々な映画でも描かれてきたリーマン・ショックである。
 大場氏のレビューでもあるように、原作でニックとエイミーが出版系の仕事を相次いでクビになるのは「経済危機や電子書籍の隆盛」のせいとしているようだ。だが、映画版では(自分の聞き漏らしがなければ)電子書籍云々の話は具体的に出てこなかったように思うし、米経済破綻の話も、アメリカ国民であれば周知の事実としているからか、はっきりとした言及は同じようになかったはずだ。

 経済状況の危機、そして己や夫婦という関係の存在意義を改めて問わざるを得ないような状況で、何かプリミティブな力を以ってして自己改革を行う、というテーマであると、フィンチャーはすでに「ファイト・クラブ」でそれを取り上げている。よって「ゴーン・ガール」では、その「ファイト・クラブ」の変奏とでもいうべき形を用いて、上記したようなテーマに再度挑んでいるように思える。
 「ゴーン・ガール」で、妻と夫はそれぞれまったく異なる状況で危機に陥り、それぞれのやり方でその危機的状況を乗り越えるのだが、事件後のメンタル面での変化が面白い。完全に去勢されたようなニック(そのストレスを健気に吸い取る家猫)と、母親が自分をモデルに描いた児童小説(このおかげで劣等感を抱き続けた)のように文字通りやっと「アメイジング」な人間へと変貌を遂げることができたエイミー。

 夫による(腕力などを含む)妻の支配、というのはありふれた話だが、妻による完全な形での夫への支配が完成するには、これだけの手の込んだ背景や手間隙を要する、というサンプルとしても読み取れ、「ゴーン・ガール」は単なるミステリーとは一線を画している。そしてこれほどまでにミソジニーとミサンドリーのリトマス試験紙になるような映画もないと思うので、将来真剣に結婚を考えているようなカップル、あるいは長きに渡る結婚生活を考えている夫婦こそ、揃って観て感想を探るべき映画であるように思った。
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ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

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ゴーン・ガール 下 (小学館文庫)

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