The Killer Inside Her 「キック・アス」


二つの点で、しっくり行かない所がある映画だった。
物語の、恐らく起承転結でいうと「起」の結びの場面。スーパーヒーローに憧れる冴えない高校生:デイヴは、憧れるだけでは飽きたらず、自らヒーローのコスプレをして街をパトロール。そして、偶然にも数名の暴漢に襲われている男性を傷だらけになりながらも助け、その様子を携帯の動画で撮影していた青年はデイヴにこう問いかける。
「すげえな……あんた、名前は?」
「“キック・アス”さ!」
このカット終わりが秀逸で、その言葉をキメ台詞としてフリーズフレイムすると、YouTubeの再生が終わった時のように「Replayする?それとも関連動画を見る?」といった旨のメッセージが表示され、彼のニュース映像に切り替わる。
ここで自分は、この映画はきっと、アンディ・ウォーホル*1がかつて口にした「誰だって15分間は有名になれる」といったような現象が、
「コスプレをしていたりヒーローの名前を名乗ったりといった事実が過剰に装飾されていき、ただ暴漢を助けただけ、という事実がメディアによって高速で伝播し一人歩きを初め、平凡な高校生はそのギャップに困惑するが、最終的には自らそのギャップを埋めることにより成長する……」
というような着地点に落ち着く映画なんだろうと考えていた。
だが実際はそうではなかった。ここでまず一つ目の予想が裏切られる。
そしてもう一つは、ヒットガールとビッグダディという親子による、復讐譚のパート。
ローティーンの女の子が、銃器やナイフなどを使用して組織の人間を次々と血祭りに上げていく様は、かなりインパクトがあるし、普通に考えれば尋常ではないように思う。そうした場面を映画の中に組み込むには、それなりの理由付けだとか、そうなっても致し方ない、と思わせるような内面の描写が、ある程度は必要なのではないか?
しかしながら、父親にキラー・エリートとしての教育を施された娘:ヒットガールの内面は、全くといって良いほど描かれず、あるとすればそれは父親に対する絶対的な服従である。ということは、最後の最後に彼女が「殺人者」としての本性を何某かのイニシエーションを持って自覚するとか、その現実に対応しきれずに崩壊してしまうとか、そんな場面があるのであろうと思っていた。しかし、そうした場面は最後までなかった。最後まで彼女は、父親の庇護の元に、母親の仇と教えられてきた組織の人間に対する殺人を繰り返す、ただの娘であった。

ヒットガールの殺戮シーンでディッキーズ「バナナ・スプリット」、ジョーン・ジェット「バッド・レピュテイション」を使用していることを考慮すれば、これはあからさま過ぎるぐらいにあからさまなメッセージなのかもしれない。だからと言っても、そこに至るまでの道程を整理しておかなければ、こちらとしても盛り上がれないし、クライマックスで彼女がマフィアのペントハウスに単身乗り込んでいく時にモリコーネを流されても、やっぱり盛り上がれないのである。
聞くところによると、原作には映画とは異なる結構なオチがあるらしいのだが、何故そっちを採用しなかったのか、と非常に疑問に思った。あれだけやりたい放題やっておきながら、何故そこで日和るのか?と。


そこで考えてみたんですが、ほんの1シーンで良いから、例えばあの組織が
少女売春に手を染めていた
とか、そんな事実が明らかになる……のはどうスかね?




*1:マフィアの部屋にはウォーホルの作品がこれ見よがしに掲げられている