「珈琲時光」を観ました。
まず、映画的に面白いか面白くないかは抜きにして、非常に画期的な映画だと思いました。それは私にはこの映画が「今までに無く『女らしさ』から開放されている映画」に思えたからです。
一青窈が演じる主人公・陽子の職業はライターです。お話の導入部、墓参りをするため帰省した実家で、母親に自分が妊娠をしていることを告げます。そして、結婚するつもりはなく、子供は自分で生んで育てる、という宣言をします。これは「小津安二郎生誕100周年記念作品」と掲げるには、あまりにも小津ばなれした設定とも言えます。
小津作品の女性観、とは一体どのような物だったのでしょうか。彼は「娘が嫁ぐ」というシチュエイションを、様々な設定を用いて執拗に描いてきました。そこで描かれる女性のファッションはどうだったでしょうか。娘はタイトなニットなどのトップスにロングスカート、娘の母親は着物、というような格好を良くしていたように思います。「珈琲時光」の陽子はどうでしょう。彼女はジーンズにゆったりとしたブラウスといった、現代の男性とほぼ同じような格好をしています。小津作品における画面での女性の立ち振る舞いはどうだったでしょうか。かの有名なローアングルに、正座、もしくは足を少し斜にずらして女座りで正面を向く、という写り方が多かったように思われます。一方、陽子は帰省した実家の和室で足を広げ大の字・仰向けで寝転がり、一人暮らしの自分の部屋にはパジャマのままで男友達の肇(浅野忠信)を迎え入れます。
このように、侯孝賢は小津作品で当時はタブーとされてきた女性の描き方から、面白いほど脱却しています。しかし、よくよく考えて見れば、これは「時代がタブーとしてきた女性像」とも言えるのです。
劇中、陽子が「妊娠しているから気分が悪い」と駅のホームでうずくまるシーンがあります。そこで肇は「大丈夫?」と寄り添い陽子を支え一緒に歩きます。そもそも陽子の「未婚の母」という設定自体、小津が作品を作り続けた時代にはタブーとされ後ろ指を差されたはずです。こうした何気ない描写が、印象的ではあるが誇張された表現ではなく、日常の描写として違和感無く盛り込まれるということは、一体何を意味しているのでしょうか?小津の死後以降も優れた表現で女性を描いてきた映画も多々あったことでしょう。しかしそれを「一般の邦画での表現」として描くことと、「小津生誕100周年記念作品」として上記の事柄を象徴的に描くこととは、異なった意義があるように思えます。
陽子が子供の父親である台湾人男性との結婚を選択しなかったのは「その男性がガチのマザコンで、結婚すれば必ず実家が運営する傘工場の手伝いをしなければならないから」という理由があるからです。これはすなわち、リスクはあるものの女性が選択の自由を勝ち得たという表現であるし、多様化する結婚観を象徴するものだともいえます。「イイ歳こいて結婚もせず子供も生まずに、ああいうのはなんだろうね?」といった慎太郎イズムや、「ズバリ言うわよ!女のシアワセは家庭に入って一歩後ろで旦那を立てること!」といった数子イズムとは対極に位置するものとも言えるでしょう。
小津作品では「娘が嫁ぐ」という過程で右往左往する周囲の人々やちょっとした騒動を描きながらも、いつも結婚という儀式自体は非常にシステマティックにサラっと描かれているのが特徴でした。「珈琲時光」において侯孝賢が描く女性=主人公・陽子の誇張されていない自由さを観ていると、実は小津は色々と縛りの多かった当時の世間一般的な「かくあるべき」という女性観を嘆き憂いて、笠知衆のリンゴの皮剥きとして表現したのではないか?とさえ思えてきます。熱心な小津安二郎信者は激怒するでしょうが、この「珈琲時光」が「なんてことない普通の映画」として捉えられる事自体に、大きな意義があるような気がしました。
「珈琲時光」については、以下の感想も非常に興味深かったのでリンクを貼っておきます。
id:seijotcpサマ 「歴史と向き合う主人公」
長谷川町蔵氏 「長らく登場が待たれていた“ひっつめ系映画”、しかも極上の。」