ブルックリンの原節子「人生は小説よりも奇なり」


 長年連れ添ってきたゲイのカップルが、同性婚が認められるの機に正式に結婚するも、思いもよらぬ出来事により経済難に陥り、新婚早々にも関わらず友人などを頼って肩身の狭い居候生活を余儀なくされてしまう、というお話。
 鑑賞中に驚いたのだが、この作品では小津安二郎「東京物語」の老夫婦を、熟年ゲイカップルに置き換えるという大胆な変奏がなされているのだ。
 音楽教師:ジョージ(アルフレッド・モリーナ)の主な収入が、画家:ベン(ジョン・リスゴー)との暮らしを支えたいたようなこのカップルであったが、とあることがきっかけでジョージは職を失うことになる。突然の失職により経済的にも困窮し、マンハッタンのアパートも出なくてはならなくなり、それぞれ友人宅に居候をすることとなる。
 この、新婚間もなくして離ればなれに暮らさなくてはならなくなり、友人宅に泊めてもらい、今まで良好に思えてきた関係も次第にギスギスしてくる、という感じが、「東京物語」で子供たちの家をたらい回しにされた挙げ句に熱海に送られ、そこで安らげるのかと思いきや、深夜まで隣室で騒ぐ学生の賭け麻雀で眠れない老夫婦の悲哀と見事に重なって見える。

 そして画家のベンにはさらにフィジカルな不幸が降りかかる。ここもおそらくは「熱海の埠頭でよろめく東山千栄子」の翻案ではないかと思われる(つまり、不穏な空気が漂っている)。そして、起承転結でいうところの「転」で、意外な希望の光が差すのだが、なんと物語の終わりも「東京物語」を想わせる展開となる。紀子(原節子)の告白と、贖罪の涙が用意されているのだ。
 小津生誕110年記念に鎌倉芸術館で行われたイベントで、かつて小津作品の製作に関わった山内静夫氏が登壇し、氏はサイト&サウンドで「東京物語」が一位になったことについて「極めて日本的な、特異な作品だと思っていたので意外。あの作品を海外で真似するようなことは無理であろう」といった旨の発言をしていたのだが、「人生は小説よりも奇なり」には、小津安二郎が描き続けたテーマが見事に反映されている気がした。今後は監督のアイラ・サックスの動向を注視しようと思う。

 ■関連リンク
 ウェルズ・タワー「奪い尽くされ、焼き尽くされ」

糖蜜が垂れるように探れ「ヘイトフル・エイト」


 クエンティン・タランティーノ8作目の映画である(今回はタイトルロールでご丁寧に「the 8th film by quentin tarantino」と大写しになる)。あと2本での監督引退を仄めかしているからか、なにやらジョン・カーペンター作品における「's」と同じような、ただならぬ気合いを感じてしまう。
 今回は西部劇+密室殺人という体裁をとっているが、蓋を開けてみればいつものタランティーノ作品であり、でもそれでいて今までのどの作品にも似ていない気がするし、「レザボア・ドッグス」「パルプ・フィクション」といった初期作のテイストを感じ取ることもできる。個人的に感じたのは「パルプ・フィクション」における2点の類似点があるような気がする。
 (※以下、内容の詳細に触れているので未見の方はご注意を)

 ■その1 与太話
 「パルプ・フィション」を観たことがある人なら、誰もが憶えているであろう「金時計」のエピソードだ。父の戦友から渡された父の忘れ形見。日本兵の捕虜となった父の友人がそれを隠していた場所は……深刻な話から一気に馬鹿馬鹿しさにメーターが触れきれる「アレ」である。今回「ヘイトフル・エイト」でも同様のエピソードが登場する。
 しかも今回は「憎しみ」と「差別」という、若干に大きめの風呂敷も用意されているので、この馬鹿話もそうしたテーマの上に披露されることとなる。
 当時のアメリカ(南北戦争終了後のゴタゴタが残る時代)の状況を考えれば、絶対的な弱者が絶対的な強者に立場が逆転したとき、一体どんなことを要求するのか?という点で「もしや…」と思ったらまさにその通りになったので、この場面で登場人物が戯画的な高笑いをするように、釣られて笑ってしまったのだが、よくよく考えれば果たしてここは笑うシーンなのだろうか?
 差別者と被差別社の立場が逆転すると、この状況がおかしくてたまらないのはそれまで差別されてきた側だろう。そして、これまで息をするようにナチュラルに差別を行ってきた者にとって、この立場の逆転は悪夢でしかない。観る人がどちらに共感するのか、あるいはどちらにも感じ入らずただ無情を感じるのか、各々の属性があぶり出されるようである。しかもこのシーンは回想シーンとして語られるので、もしかすると全てはある人物にあるアクションを起こさせるための、虚偽のエピソードの可能性も否定できないのである。

 ■その2 マクガフィン
 タランティーノ作品に共通する「演じる」という要素は前作「ジャンゴ 繋がれざる者」の感想で述べたが、今回も最終章に入る前に、身分を偽っている者たちによる「種明かし」と、その幕が上がる前の興奮を捉えた印象的なカットがあるのだが(「レザボア・ドッグス」も同様の構造になっている)、今回注目したい点は別にある。
 「パルプ・フィション」が何を巡る物語なのかといえば、それは「マーセラス・ウォレスのブリーフケース」である。それに関しては興味深い考察があったので、以下のリンクをご参照あれ。

 ・『パルプ・フィクション』の5つの都市伝説 タランティーノが仕掛けた謎とは......?

 リンク先でも触れられているように、結局ボスの大事なブリーフケースに何が入っているかは分からずじまいである。重要なアイテムなはずなのに中身を見せずに観客を煙に巻き、だがしかし物語の進行上の妨げにはなっていないという点で、「ヘイトフル・エイト」でも同様のある物が登場する。それは「リンカーンからの手紙」である(ちなみにこの手紙のシーンでは、雪で手紙に反射した白い光がそれを読む人物の顔を照らす、というような照明を施している。マーセラスのブリーフケースの場合は、恐らくは金塊の様なモノが入っているのでは?と観客に促すような、黄色っぽい照明を当てていた)。
 これは主要なキャラクターが読みたがる「大統領が黒人将校に宛てたとされる手紙」である。であるのだが、実はこれが「黒人将校が白人社会で生き残る術として偽造した手紙」であることが、中盤に判明する。では、どうして、冷静に考えればその時代ではありえないような代物が、男たちの間で伝承されてきたのか?
 処刑人ジョン・ルース(カート・ラッセル)は「メアリー・トッドが呼んでいる。そろそろ床に就く時間だ」との最後の一文で、すっかりそれが本当だと信じてしまう。保安官クリス(ウォルトン・ゴギンズ)はどうか?彼こそは手紙の嘘を見破った本人であるが、やはり最後の一文を読み「上手いことを考えたな」と感心する。
 共に「大統領の妻」を想ってデレデレと鼻の下を伸ばすが、片や極悪人の女を殴り、片や後の見せしめとして吊し首にする。そして首を吊られた女の背中には、壁にかけられたスノーシュー(?)が、まるで彼女の背中から生えた天使の羽のようにも見える。

 つくづくクエンティン・タランティーノという男は、食えない男である。

その愛は郊外から都市へ「エデンより彼方に」と「キャロル」


 トッド・ヘインズの2002年の監督作「エデンより彼方に」で、プロダクションデザインを担当したマーク・フリードバーグは、撮影時を振り返り以下のように語っている。
 「(ヘインズから)舞台装置っぽくセットを作ってくれ、と言われて驚いた。普段、他の監督からオーダーされるのはその逆だからね」
 「エデンより彼方に」は、夫の同性愛と、アフリカ系の庭師の間で心が揺れ動く、郊外に暮らす主婦が主人公の作品であるが、メロドラマの名手として知られるダグラス・サークの諸作品をヘインズなりに再構築した作品であり、一言で例えるなら「(サークの作品に代表されるような)50年代メロドラマ“そのもの”になってしまいたい」という願望が炸裂した「異形の偏愛映画」である。

 「エデンより彼方に」は、作品で描かれた1950年代には現行作品としてタブーとされていた要素(ゲイ・イシューとレイシャル・イシュー)を、サブテキストではなく直接描写として盛り込むことで、50年代に郊外で暮らすということがどういうことであるかを浮き彫りにした、ヘインズの出世作であり意欲作である(同様の手法で、近年ではトム・フォードの初監督作「シングルマン」が記憶に新しい)。
 「エデンより彼方に」は、とにかく50年代映画の再現としてのセットや衣装、そして照明など「画面に映るもの」への作り込みが凄まじく、その情熱たるや…というか、情熱というと聞こえが良いが、それはほとんど偏執レベルの愛である。こうした作家のある種の狂気は見過ごされ、所謂「ティピカルなメロドラマ」として消費されてしまっていることが、この映画をやや特異な作品としえ位置付けているように思う。上記のフリードバーグの発言が、その特異さを裏付けている。

 そして「エデンより彼方に」から13年を経て、パトリシア・ハイスミス原作による、そのものずばり同性愛をテーマにした「キャロル」が完成した。「エデンより彼方に」では、時代の制約で暗に仄めかすことしか許されなかったテーマを、その時代のスタイル、当時は排除された要素を取り入れ「何がタブーであったのか」を強調して描いたヘインズが、「キャロル」では、デパートの売り子で若いテレーズと、離婚を間近に控えた子持ちのキャロルという、二人の女性が通わせる愛を、正攻法の恋愛映画として描いている。
 郊外生活者の虚飾や孤独を描いたのが「エデンより彼方に」であったとすると、一方その頃、都市生活者はどうであったか?を、ヘインズは「キャロル」で描いてみせた、とも言えるだろう。

 「エデンより彼方に」では、主演のジュリアン・ムーアや、隣人を演じるパトリシア・クラークソンといった人たちが、所謂50年代的な「臭い」芝居とモダンで繊細な要素を織り交ぜたようなスタイルの芝居をしているのに対し、ムーアの夫役であるデニス・クエイドだけが、終始大仰で、まさに50年代という芝居を見せている。一際印象深いシーンは、自らの同性愛属性を自覚した夫が精神科に通うも、そんなものが治るはずはなく、それでも試しに妻を愛そうと半ば無理矢理にソファーに押し倒すが、嫌悪感からかその妻に手を上げてしまう、というシーン。ここでエルマー・バーンスタインの劇伴は、夫が妻に手を上げたその瞬間…
 「テテテーン!」
 と、あたかもコントのように高らかと鳴り響く。しかし、不思議なことにそれほど違和感は感じない。ヘインズが巧妙に作り上げた「1950年代のメロドラマ」という箱に、2000年代の俳優を収めているからである。

 その点「キャロル」ではどうか?カーター・バーウェルによる劇伴は、まるで現代を舞台にした作品のように、繊細かつ流麗に、そして決して目立ち過ぎずに、映画を盛り立てている。
 演技面ではどうか?キャロルを演じるケイト・ブランシェットにせよ、テレーズを演じるルーニー・マーラにせよ、現代劇とさして変わらないテンションで50年代に生きた女性を演じている。例を挙げるなら、50年代の作品であればもっと説明的な描写になったであろう、テレーズが電車で涙を流す序盤の印象的なシーンも、様々な感情を憶測できるような余地を持たせている。
 テレーズとキャロル、二人のゲイの女性の目線から伝わってくるのは、ヘテロセクシャルであることが大前提であった時代の「生き辛さ」である。テレーズのボーイフレンドの身勝手さ、自分を性的対象とみなすテレーズの友人男性、そして同性愛を一時の気の迷いと思っているキャロルの夫。そんな中、事態を全て把握し、それでいて社会との折り合いもつけているキャロルの親友アビー(サラ・ポールソン)は、まるで二人を見つめる守護天使のようでもある。

 そして敢えて現代的ではない点を挙げるなら、惹かれあっていることは観客にも充分想像がつく二人が、実際に肌と肌を触れ合わせるラヴシーンに至るまでに、結構な時間を、50年代的なゆったりとした尺を要するのである。これはおそらく、かつてのメロドラマの「間」であり、もしかすると「品」とか、そうした言葉に置き換えられるのかもしれない。観客は、二人が困難を強いられた時間を共に体験し、ラストで幾多の障壁を超えた二人が見つめ合うように見て、お互いのその胸の高鳴りを耳にするのである。

 □関連リンク
 ■大場正明「サバービアの憂鬱 〜アメリカン・ファミリーの光と影」
 ■メロドラマの巨匠:ダグラス・サーク諸作品を鑑賞 その1
 ■メロドラマの巨匠:ダグラス・サーク諸作品を鑑賞 その2
 ■大学教授の澱んだ一日「シングルマン」

2015年公開作品ベスト10


1. 『インヒアレント・ヴァイス』
2. 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
3. 『ジミー、野を駆ける伝説』
4. 『パレードへようこそ』
5. 『誘拐の掟』

1.インヒアレント・ヴァイス
 入り乱れる登場人物・所属団体・それぞれの思惑…という感じで最初はややわかりづらい印象で進行していくが、それが「ある男を救いたい」という、非常にシンプルなテーマに帰結していく。ポール・トーマス・アンダーソンという作家をリアルタイムで追い続けてきた喜びを実感できる一本。
2.マッドマックス 怒りのデス・ロード
 もう言わずもがな、という感じであるが、この脚本制作にあたり招聘された「ヴァギナ・モノローグス」のイヴ・エンスラーの「ワイヴスのモデルは従軍慰安婦」という発言が全てを物語っているように思える、戦後70年の年の瀬。劇場で三回(IMAX、通常字幕、立川爆音)観ました。
3.ジミー、野を駆ける伝説
 「ファーザー、貴方が最後に人の話を聞いたのはいつのことですか?貴方に傅く者以外の話に耳を傾けたのは」という台詞が胸を打つ。(なんか状況は悪化の一途を辿ってるけど)2013年の「ハンナ・アーレント」がそうであったように、今、日本で、観ることの意味が大きい一本。
4.パレードへようこそ
 序盤でパティ・コンシダインがゲイバーでスピーチをする辺りから終わりまでずっと泣きながら観た。ド田舎に、都会から新たな価値観が届けられる、という点ではアン・リーの「ウッドストックがやってくる」と共通点があり、上記3位に挙げた「ジミー、野を駆ける伝説」と同じく公民館映画でもある。
5.誘拐の掟
 はっきり言って上位5作は、豊作でなければどれが1位でも遜色ないクオリティーの作品だと思う。本作も、派手さは無いが、時代の転換期に吹き荒れる狂気に対して「真っ当」であれば足元をすくわれずに済む、というテーマを、乾いたトーンで描いてみせる。本作の監督:スコット・フランクという名前をよく憶えておきたい(前作にあたる「ルックアウト 見張り」も傑作だった)。


6. 『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』
7. 『わたしに会うまで1600キロ』
8. 『Mommy/マミー』
9. 『アメリカン・ドリーマー 理想の代償』
10. 『野火』

6.ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション
 「誘拐犯」「アウトロー」と、寡作ながら着実にステップアップしてきたクリストファー・マックァリーが、ついにビッグバジェットのシリーズ作で爆発した。感慨深いの一言。
7.わたしに会うまで1600キロ
 「何かを見て・聞いて、全く関連性の無い何かを思い出す」という、人間なら脳味噌の中で普通に行っている作業を、ここまで的確に視覚化した映像作品を私は他に知らない。実はこの手法は監督のジャン=マルク・ヴァレの前作(「カフェ・ド・フロール」「ダラス・バイヤーズクラブ」)がちゃんと踏み台になっていて、この人も下記「mommy/マミー」のグザヴィエ・ドランと共に、今後動向を注視しなければならないカナダ勢(あとはドゥニ・ヴィルヌーヴ)の一人である。
8.Mommy/マミー
 鑑賞時の感想をこちらに
9.アメリカン・ドリーマー 理想の代償
 「A MOST VIOLENT YEAR」という原題が全てを物語っているにも関わらずこんな邦題になってしまってはいるが、「やり方は問わない、結果こそが全て」というポリシーの行く果てに現在のアメリカのドン詰まりがあり、それでは一体どこら辺が転換期だったのだろう?と遡る意欲作。トラックドライバーの従業員詰所の、更衣室が便所と分け隔てられていない、というあの絵面が一番VIOLENTかも知れない。
10.野火
 市川崑版「野火」よりは遥かに少ない制作費の映画であろうが、創意工夫で「プライベート・ライアン」Dデイは再現可能である!という心意気に感動したし、市川版のエンディングとは異なるエピローグを追加したことで、作品のテーマがより明確になったように思う。これもやはり戦後70年の節目に多くの人が目撃すべき作品だと思う。

2015年に劇場で鑑賞した作品は142本。トップ10入りにはならずも、印象に残った作品を以下に。

『EDEN/エデン』『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才科学者の秘密』『キングスマン』『しあわせはどこにある』『しあわせへのまわり道』『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』『シェフ 〜三ツ星フードトラック始めました〜』『ジュピター』『ソロモンの偽証 前・後篇』『ドローン・オブ・ウォー』『パプーシャの黒い瞳』『プリデスティネーション』『マジック・マイクXXL』『マップ・トゥ・ザ・スターズ』『ローリング』『海にかかる霧』『奇跡の2000マイル』『江南ブルース』『国際市場で逢いましょう』『妻への家路』『死霊高校』『唐山大地震』『明日へ』


過去の年度別ベスト10



それではみなさん、良いお年を!

音楽映画ベストテン

 ワッシュさんのベストテン企画に参加致します。


(順不同)(年代順に並べてみました)
『紳士は金髪がお好き』(1953)
『狂熱の季節』(1960)
『スパイナル・タップ』(1984)
『グレート・ボールズ・オブ・ファイヤー』(1989)
『アマデウス ディレクターズ・カット』(2002)
『踊るマハラジャ★NYへ行く』(2002)
『ブロック・パーティー』(2006)
『ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国』(2006)
『恋するリベラーチェ』(2013)
『セッション』(2014)

■ミュージカル
 『紳士は金髪がお好き』『踊るマハラジャ★NYへ行く』
 モンローの代表作、というよりはジェーン・ラッセルの狂ったミュージカルシークエンスが凄い「紳士は金髪がお好き」

 ボリウッドミュージカルと「グリース」が奇跡的な融合を見せる「踊るマハラジャ★NYへ行く」

■ライヴもの
 『ブロック・パーティー』『ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国
 市井の人々/一般の観客の視点、という点に重きを置いたライヴ映画が、同時多発的に同じ年に公開されているのが何だか興味深い。
■伝記・音楽に纏わるフィクション
 「俺は黒んぼのジャズを聴かねぇとイライラしてくンだ!」「黒んぼのジャズを白んが盗んだ。その白んぼが盗んだジャズの真似をしてるのが俺たちだ。最低だよ!」という川地民夫の台詞がいちいち最高な『狂熱の季節』、モキュメンタリーの奇跡的大傑作『スパイナル・タップ』、ジェリー・リー・ルイスの伝記映画『グレート・ボールズ・オブ・ファイヤー』、英語台詞による偉人コスプレ劇を物語が凌駕する『アマデウス ディレクターズ・カット』、TVMでこのクオリティーの高さかと唖然とする『恋するリベラーチェ』、実は全然ジャズを描いた映画ではなく師弟関係の歪さとかそれがド突き合いになった時の目も当てられない感じなど色々と多面的なテーマを描くことに成功している『セッション』など。




僕の世界の生き辛さ「Mommy/マミー」


 カナダの新鋭、グザヴィエ・ドランの新作は、カナダの近未来予測的な、架空の世界を描いた意欲作である。
 発達障がいを持つ子供の親が、法的手続きを経ずに養育を放棄したり、当該の施設・病院などに強制入院させることが可能となる新法案がカナダで可決される。ADHDの息子:スティーヴを抱えるシングルマザーのダイアンは、矯正施設から退所したばかりのスティーヴを引き取り、新法案の餌食にならないよう「私が一人で育てる」と、情緒不安定かつ暴力的な傾向もある息子と向き合おうとするのだが…という、カサヴェテスの「こわれゆく女」ならぬ「こわれゆく我が子」という物語。

 これまで、自分にとって切実であるテーマしか撮っていない印象があるドランだが、ゲイであることを公言する自らが主演し、田舎の保守性・男根父権主義からの脱出を描いた前作「トム・アット・ザ・ファーム」の次に選んだのは、15歳のADHDの息子と、その母親との濃密な交流を描いた物語。多動性の人の「普通の人間に比べてより色々なことが見えてしまう/聞こえてしまう」というある種の才能が、順応性の無さと見なされ阻害されてしまう生き辛さに、若き天才は切実な問題を見出したのではないだろうか。その「生き辛さ」は、スタンダードサイズですらない、1:1という独自のアスペクト比で表現されるが、これはどちらかというと、それと対比として描かれる、中盤と終盤に差し込まれる「解放」を意味するスクリーンサイズの拡がりを強調するがゆえの試みだと思われる。
 興味深いのは男性のキャラクターの描き方である。ある意味で主役であるスティーブはさておき、劇中に登場する近隣の男性は恐ろしく薄っぺらく、かつマッチョで旧態依然とした父権を振りかざすようなタイプの男で、問題を起こしたスティーヴへの対応でダイアンに失望される。あとはキャラクター名があってもなくても構わないような施設の職員などで、ようするにほとんどの男性キャラクターは添え物的な扱いなのである。
 母ダイアンと共にスティーヴの面倒を見ることとなるカイラは、精神的な問題を抱え勤め先の高校を休職中の既婚女性である。ダイアンも、向かいの家に夫と子供と暮らすカイラも、ヘテロセクシャルのキャラクターではあるが、これはゲイカップルが子育てをすることの暗喩と見ることもできるだろう。リー・ダニエルズの「プレシャス」がそうであったように、近代のドラマにおける男性の役割は、「種」を提供する以外に(あるいは女に厄災をもたらす以外に?)何かあるだろうか?という大胆な問いかけであるようにも思えなくもない。

 カイラに勉強を教えてもらっていたスティーヴが彼女を試すことをやめず、床に押さえつけられた上で怒鳴られ、スティーヴは恐怖のあまり「ある生理現象を起こしてしまう」という印象的なシーンがある。そこでカイラは動じることなく所謂「母性」的な対応を見せるのである。こうした柔軟で臨機応変な対応を「母性」的とすると、作中の恐怖の象徴となる「新法案」の冷徹さや合理主義は「父性」的と取ることもできるだろう。身内や知人に障害のある人間が存在しない人々も、こうした「母性」に象徴されるような理解を持って接することができれば、世界は今よりもっと「生き易い」世界になるのではないか?「マミー」というタイトルには、ドランのそうした祈りも含まれているような気がしてならない。

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20年遅れてやってきた松本人志的シュール「エクソダス 神と王」「シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア」

・「エクソダス 神と王」鑑賞。

 モーゼが神様から「黙って見ていろ」と言われた「10の災い」。
 川は血に染まり、蛙・ブヨ・虻・が大量発生、疫病大流行、皮膚病も大流行、雹がガンガン降る、蝗も大量発生、雲でエジプト真っ暗、長子は皆死ぬ。
 心身ともに極限状態に達したエジプトの王ラムセスは、とうとうヘブライ人の奴隷たちにこう叫ぶ。
「…もうカナンの地でもどこでも行ってくれ!出てってくれ!!!」
 ちなみにその神様(預言者?)の外見は、坊主頭の小僧である。


・「シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア」鑑賞。

 ヴァンパイアの日常をPOV方式で綴ったモキュメンタリー。誰もが知るモンスターの日々の暮らしを追う様が笑いを誘う作品だが、とりわけ可笑しいのがヴァンパイア皆から好かれるスチューというキャラクターである(画像一番右の人物)。彼の紅潮した頬を見て「旨そう、たまらない…」としながらも「スチューはイイ奴だから」というだけの理由で獲物になったりはしない。


 ありえないような災いのつるべ打ち、そして遂にはブチ切れる王様。吸血鬼の日常をクソ真面目に描くことで浮かび上がる馬鹿馬鹿しさ。
 上記2作品を観ながら、真っ先に頭に浮かんだのは松本人志のことである。


 狂人の料理番組、トカゲのオッサン、ベタベタな関西ノリの白人、スーパースター板尾、海から出現し一言告げる係長、などなど、各コントを挙げていけば切りがないが、90年代初頭〜終盤まで、松本人志が嵐のように駆け抜け才能を迸らせていたのは「ダウンタウンのごっつええ感じ」という番組であった。
 日常に潜む狂気、あるいは狂気を逆に日常に放り込むことで際立たせる、松本のそうした手法は、お笑いにおける「シュール」という感覚を上書きし、後の日本のお笑いにも絶大な影響を与えているように思う(そしてかなりの割合でそれは後続の芸人に「シュールはクールだ」と勘違いさせた功罪であるようにも思う)。
 そんな松本も、2007年に「大日本人」で監督デビューを果たす。実に「ごっつ」終了から10年が経過していた。
 例えばその「ごっつ」終了間もない頃に松本がメガホンを取るような状況を、もし周囲の人間が整えていたならば、「大日本人」はあのようなオチになっただろうか。「さや侍」のラストの、全てを長々と説明する弾き語りを採用しただろうか。
 昨今の様々な洋画の「妙な」シーンに触れるたびに、松本の先見の明を思い、そんなことを考えてしまうのである。