田舎医者は三度ペンライトを回す「ディア・ドクター」

「ディア・ドクター」を観ました(@109シネマズMM)。

山あいの小さな村で、一人の医師が突然失踪してしまう。村人たちに慕われ、絶対的な支持を得ていた医師は、一体何故、その村から消えなければならなかったのか?刑事たちは捜査を始めるが、そこには医師と一人の老人とが交わした、ある秘密の約束が浮かび上がってくるのだった。
描かれるストーリーは重層的で描かれている人物は多面的、という、こう記すと一見非常に実験的な映画のように思えますが、そこはキチンと整理され、正攻法の人間ドラマというか、久々に骨太な邦画、いや映画を観たなぁー、と嬉しくなりました。
人間という生き物は、普段、割といい加減に「善か悪か」「故に成すべきか成さぬべきか」という物事の判断しているというか、行い自体の判断基準は属する集団の倫理に基づき、そして多くの場合、そのとある集団の倫理という物は、もっと大きな集団(つまりは国とか宗教とか)の属性によるもの、という形になっている。ような気がします。
この「ディア・ドクター」には、そうした「倫理」の点で、グレーゾーンといえる事柄を描く事に成功しています。
冒頭、もう臨終間近か、という老人の元に、医師である伊野(笑福亭鶴瓶)が呼ばれる。もう意識のない老人に対し、挿管を試みる助手の相馬(瑛太)。伊野は、老人を囲んだ家族から、言葉にならない威圧感を察する。「できれば、延命措置はしなくても…」声にならない声を聞き入れ、伊野は相馬に挿管を止めるように指示する。臨終が告げられると、家族からは驚きと悲しみと安堵が混じったような声があがり、中にはもう葬儀の事を話し出す者もいる。伊野は老人の遺体を、老人だけに聞こえるようなか細い声で「…よう頑張ったな……」と囁き、そして抱きしめるのだった。
まぁ、この後には爆笑必須のオチがあって(下の予告編にあります)、それを考えると言ってみればココはただの前振りのようにも思えてくるのですが、このシーンは「ディア・ドクター」の根幹をなすような重要なシーンとして象徴的に描かれています。
延命措置を望まない気持ちと、老人の死を悲しむ気持ちは、一見真逆のことのようにも思えるが、必ずしもそれらの要素は断絶しておらず、どこかで地続きである。鶴瓶演じる伊野という医師は、こうした村独自の倫理を受け入れ、そして実践する。そのような重大な決断をいとも簡単に受け容れる伊野という男の寛容さは、一体どこから来るものなのか?彼は一体、どんな男なのか?それが中盤以降、八千草薫演じる、かづ子という老婦人との関わりの中で明らかになっていきます。
監督である西川美和は「四国の山奥で白タクの運転手が捕まってしまい、それまで病院に行くときなどに白タクを利用していた老人達が困ってしまった」というニュースに本作の着想を得たそうです。そして、とてもこれが長編三作目とは思えぬ手腕で、そのニュースが示唆する問題を余すところ無く取り入れ、「ディア・ドクター」という作品に仕上げました。
シネコンなどではもうすぐ公開が終了してしまう所も多いですが、ちょっとでも気になった方は是非、劇場に駆けつけたら良い思います。