飛び出すじいさんと飛び出さないじいさん「カールじいさんの空飛ぶ家」


じいさん四角い!子供丸い!鳥がカラフルでデカイ!犬が喋る!狂った老人!(カールじいさんではない)…などなど、それだけで色々楽しめる作品だけど、それ以前に脚本がとても良く出来ている作品。
各所で指摘があがっていた通り、「自暴自棄の老人が少年と共に異世界に踏み出す」という点で見れば『グラン・トリノ』と基本的な構造は同じである。
『グラン・トリノ』と『カールじいさん』の最大にして微妙な差異は“少年”の存在、その在り方であろう。
コワルスキーじいさんは(以前自分も書いたが)『東京物語』同様、妻に先立たれ、すでに巣立った子供たちにはそれぞれの家庭があり、そして悲しいかな、実の子供たちに疎ましがられている。そこにアジア系の隣家という異世界から、隣人である少年タオが現れる。『グラン・トリノ』はいわば、子育てに失敗した親が、子の代替である少年に再教育を施す物語でもあると言える(床屋での一連のやり取りを見ていると、あーこの人は実の息子たちにこれをやりたくてもやれなかったんだろうな、ということがよくわかる)。
一方『カールじいさん』はどうかと言うと、妻エリーとの馴れ初めは幼馴染の仲であり、そのまま結婚、しかしながら子宝には恵まれなかった(流産か不妊かを象徴的に促すシーンがあり)。エリーの死後、自分の犯したささいな暴行のせいで、カールじいさんは老人ホームへの入所を強制されることになってしまう。そこにボーイスカウトの少年ラッセルがやってきて、ドアをノックする。つまり、ラッセルは、カールとエリーが望んだが叶わなかった“わが子”として現れるのである。
捨て身で“わが子の代替”を守ろうとする、カールとコワルスキーという二人の老人。彼らを隔てているものは何か?それはおそらく、女性経験の数の違いと、そこから生じるロマンチシズムである。
偶然にも二つの作品は共に「伴侶の喪失」という所から物語が起動していく。
コワルスキーじいさんは、おそらく若いころはさぞお盛んで、老いてもなお枯れてはおらず、また「俺って今でも色男だからよぉ」というイーストウッド自身による演出も清々しいほどである。
一方カールじいさんはというと、幼馴染であるエリー一筋で、おそらく童貞を彼女に捧げ、エリーも処女をじいさんに捧げ、お互い浮気なんてこともなく、仲睦まじく夫婦生活を過ごしてきたのだろう(各所で言及されているが、この間をサイレントで見せきる本作の監督:ピート・ドクターの手腕は大した物である)。
おそらくこうした女性観の違いが、二人のじいさんの間のけじめのつけ方で、明確に表れている(ような気がする…)。自分が身を挺して災難に立ち向い、華々しく散ることも辞さないのか、あるいは、わが子の代替と共に苦難を切り抜けようとするか。そしてこれは紛れも無く、クリント・イーストウッドという男と、ピート・ドクターという男の、それぞれが構成する「理想の男」の様々な要素の差異でもあるのだ(それらは世代論に限らない)
あと、もし実写版を制作する際には、ぜひ大川慶次郎先生をキャスティングして欲しいですね。