とり残されて「レスラー」

「レスラー」を観ました(@シネマライズ)

ランディ“ザ・ラム”ロビンソンは80年代に活躍したプロレスラー。そんな彼も今では老体に鞭打ち、小規模な地方興行に出場して稼ぎを得ている毎日で、それもスーパーマーケットのパートタイムで働く傍らに、という有様。ある日、ランディは長年使用してきたステロイドが原因で心臓発作を起こし、病院に運ばれてしまう。「復帰は死を意味する」と医者に釘を刺されたランディは引退を決意。しかし、リングを奪われ、リングの場外での暮らしはランディを徐々に追い込み、死が明らかなのがわかっていながら、彼はかつてのライバル:アヤトーラとのリ・マッチに出場することを決意するのだが・・・。というお話。
ストーリーとしては「2時間ドラマもかくや」という程、ベタもベタ。しかしそこに息衝く人々は、どうしようもなくリアルで、哀れで、可笑しく、そして愛おしい。監督のダーレン・アロノフスキーという人は、ハーバード卒→そこからAFIに入りなおすような人で、この人が果たして(本当のところ)どういう目線でこのキャラクター達を見ているのかは知る術もありませんが、おそらく彼のキャリア上でベストの作品に仕上がったと言えるのではないでしょうか*1
主人公であるランディ(ミッキー・ローク)は、行きつけのストリップバーのストリップ嬢:キャシディ(マリサ・トメイ)と交流を深めるのですが、そんな彼らがとあるバーで意気投合する興味深いシーンがありました。
「80年代のロックは最高だった。RATTにガンズにモトリー!お気楽なパーティーのりで。それがニルヴァーナが登場して全てを変えちまった。90年代の陰鬱なロックは最低だ」
わかりきったことではあるけど、ハッとさせられました。そして、ランディと同意見の人々はアメリカでも相当数いるんだろうな、と思いました。
この「80年代は最高、90年代は最低」という何気ない会話のやり取りは、二人で音楽の好みの話をしているように見えて、実は自分の青春とその時代の音楽とを重ね合わせ、感傷に浸っているに過ぎないのかも知れません。だからもし、90年代に活躍したレスラーを主人公に据えれば「グランジは最高だった。80年代の産業ロックや、テクノやヒップホップや何か色々混ざったヤツはクソ喰らえだ」みたいな台詞に改変されるでしょう。
流行り廃れというものは、何時の時代にも存在し、大半の人々は、現行の「流行」に合わせていく術を持ち合わせていて、「うん、こういうのも悪くないかも」と自分を騙し騙しマジョリティと同化していく。そして、そうした術を持ち合わせていないランディのような人物は、自分が最高だった時代のものにすがりつき、現行モードの類には興味すら示さない。プロレス以外のことをして生きていく自分を想像できないので、レスラーを引退し、トレーナーになったり、俳優に転向したり、あるいは全く別の事業に進んだり、そういった自分を、やはり想像できない。
自分が大好きな映画に「ロード・オブ・ドッグタウン」という映画があります。この映画にも、天才的なスケーターの資質がありながら、色々なことが面倒で、ドロップアウトしていってしまうジェイ・アダムスというキャラクターがいました(ちなみに実在の人物)。ランディも明らかにこうした「不器用で、選択肢すら思いつかず、結果的に時代から忘れ去られとり残されてしまう人」の系譜にあるキャラクターだと思います。
一方、キャシディはというと、ストリップバーで働きながら女手一つで子供を育て上げ、もしかしたら資格の一つや二つは持っていそう(あるいは簡単に取ってしまいそう)だし、非常に安定していて、自分を騙し騙しやっていく術を持ち合わせているキャラクターと言えるでしょう。なので恐らく「90年代は最低」と意気投合しながらも、彼女の本心でそれは単に音楽の話に過ぎず、ランディの深刻さとは無縁のものと言えるでしょう。あの短い会話のシーンで、アロノフスキーは二人の決定的な相違を描く事に成功しています。
「不器用で、選択肢すら思いつかず、とり残されてしまった人」が何をするか?答えは火を見るより明らかです。ある意味で90年代を代表する作品「バッファロー'66*2」における「やっぱナシよ」という強引かつ痛快な幕引きとは対照的に、不器用でピュアな男の物語は、その重い重い幕を下ろします。(勿論、まず作家性ありきでしょうが)同じようなストーリーの作品でも、時代によってこうも作品のトーンが変わってくるのだなぁ、という点で、非常に印象的な作品でありました。

バッファロー'66 [DVD]

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*1:スイマセン「ファウンテン」観てませんでした…

*2:しかもコレにもミッキー・ローク出てるじゃんか!