火サス・イズム、あるいはカサヴェテシズム


「21グラム」を観ました。


非常に乱暴な言い方をしてしまえば、映画には2種類のタイプしかないと思います。それは「ドラマの中に日常を見い出す映画」もしくは「日常の中にドラマを見い出す映画」の2つです。
例を挙げるとすればAFIのベスト1に燦然と輝く「市民ケーン」です。この映画は「新聞王ケーンの謎の遺言『バラのつぼみ』とは何だったのか?」というドラマチックな幕開けから、ケーンという一時代を築いた男の生涯を辿る事により「彼も我々(観客)と何ら変わらない一人の男だった」という結論に至る作品です。ハリウッド黄金期に制作されたほとんどの映画が「ドラマチックな展開の中に、主人公やその家族などの日常という普遍性を描くことにより観客の共感を得る」という構造を成しています。しかし時代の流れと共に、普遍性は様々に変化していきます。50年代後半にもなれば、「ドラマの中の日常」も色んな所でこう着状態となり綻びが見られるようになります。そこで「事件はセットで起きてるんじゃない!ストリートで起きてるんだ!」と叫んだ一人の男がいました。ジョン・カサヴェテスです。
それまで俳優としてキャリアを積んでいたカサヴェテスは「アメリカの影」という自主映画で59年に監督デビューを果たします。この作品ではN.Y.で暮らす3人の兄弟にカメラを据え「一見退屈な彼らの日常にこそドラマが転がっている」と、それまで王道だった「ドラマの中の日常」とは真逆の「日常の中のドラマ」を描いて見せます。彼は生涯を通してこのテーマを一貫して求め続け、その後は多くのフォロワーを生み出しました。
話が長くなるので、最近の監督の話をしましょう。例えば最近活躍が著しい、90年代後半にデビューを果たした監督たち。スパイク・ジョーンズマーク・ロマネク、ミッシェル・ゴンドリー。この人たちは「俳優の頭に通ずる穴が自分の勤める会社にあった」「DPE屋の男が偏執的にある家族に迫る」「世界一毛深い女・自分を猿だと思う男・ネズミにマナーを教える学者」といった要素から「ドラマの中の日常・普遍性」を汲み取ってみせました。一方、ソフィア・コッポラアレキサンダー・ペイン、ウェス・アンダーソンといった監督たち。この人たちは「見知らぬ異国で自分探し☆」「娘の結婚を阻止したい父親が孤軍奮闘」「死期の近い父に召集される崩壊家族」といった要素から「日常・普遍性の中のドラマ」を汲み取ってみせました。
で、やっと「21グラム」です。この映画は「ある事件がきっかけで関係を持つことになる3人の男女が抱く、それぞれの視点・想い」という、基本的には「ドラマの中の日常」を描いた物語と言えるでしょう。しかしこの「21グラム」はそうした枠内に納まりきれない「何か」を内包しているように思えました。それは時間軸がバラバラに進行する、この作品の構造にあるような気がします。
つまり通常の時間軸で語られる物語における感情の「タメ」や「爆発」は無秩序に配置され、ある種の混沌が渦巻いています。この混沌はクリストファー・ノーランのデビュー作「フォロウィング」を思い起こします。「フォロウィング」も「21グラム」同様、時間軸がバラバラに進行するので、観客は登場人物の服装や髪型、顔のアザ、会話のやりとり、といった要素からエピソードの行間を埋める作業を強要されます。「21グラム」でも行間を埋めるという作業により、いくら俳優がエモーショナルな芝居を見せた所で易々とした感情移入は許されず、観客は常に身構えた状態での鑑賞を強いられます。「フォロウィング」も「メメント」も、フィルムノワールという観点から言えば「ドラマの中の日常」を描いた作品と言えるでしょう。しかし時間軸をいじることで、ある種の進化を遂げている作品と位置付ければ、「21グラム」にもそうした進化が見受けられるような気がするのです。
ノーランは「メメント」の後に正常な時間軸で正攻法の刑事ドラマ「インソムニア」を撮りました。果たしてアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは「21グラム」を習作として、次にどんな作品をぶつけてくるのか?そうしたグツグツとした得体の知れない「何か」が、「21グラム」にはあるような気がします。