ペドが水着に着がえたら 〜リトル・チルドレン〜

リトル・チルドレンを観ました(@ル・シネマ)

ボストン郊外の閑静な住宅街に、性犯罪での服役を終えた男:マゴーヴィーが戻ってきた
専業主婦のサラケイト・ウィンスレットは、子供を連れ公園に集う主婦の集団に違和感を禁じ得ない。彼女たちは平日の昼間から子守りにやってくる若い男親の話題でもちきりだ。彼の名はブラッド(パトリック・ウィルソン)。サラは、彼に熱を上げる主婦達に見せ付けてやるつもりで、ブラッドとハグし、そしてキスを交わす。その時はとっさの悪ふざけのつもりだったが、子守りで通う市民プールで会話を重ねるうちに、お互い伴侶がありながらも、より深い関係に陥って行く。
そして、公共の場に姿を現すようになったマゴーヴィーに対する周囲の反応も、次第にエスカレートしていき…というお話。
個人的に好きな“サヴァーヴィア物”の映画だったので、期待しつつ観に行ったのですが、これが期待を上回る大傑作でした。物語の大きな軸は二つ。不倫関係に至る若いカップルと、服役を終え街に戻ってきた元性犯罪者:マゴーヴィー。それぞれは微妙に絡み合いながら、クライマックスの大きなうねりへと向かっていきます。
タイトルの「リトル・チルドレン」とは、サラとブラッドの子供達を指しつつ、もう一つの意味を持ちます。エロサイトにはまり会社のPCの前でズボンを下ろすサラの夫。子供を昼寝させ肉欲に耽るサラとブラッド。50近くになっても身の回りの世話を全て母親にまかせているマゴーヴィー。
「女性は子供を生んで母親になるのではなく、なっていくもの。父親もまた同じようにね」と監督のトッド・フィールドは語ります。状況が人格を形成するということ。昨年の「サムサッカー感想)」がそうであったように、これはサヴァーヴィア物における一つのテーマのようにも思えます。
もう一つのサヴァーヴィア物におけるテーマ。それは「人を外見で判断すること」だとトッド?フィールドは語ります。一見密なコミュニケーションが取れているように思えても、「連携」という幻想に囚われているだけで、裏では偏見に凝り固まった視線で周囲を監視している。それだけではなく、のけ者にされてしまわないよう、マジョリティーと同調するように心掛けている。市民プールにマゴーヴィーが現れ、まるでジョーズのような大騒ぎになるシーンは、郊外の欺瞞がガラガラと音を立てて崩れ去る名シーンで、これを観るだけでも1800円を払う価値があると思います。
生きていれば経験するかも知れない、人生における大きな転機や岐路。それは振り返ってみれば美化され、さも「来るべきして来た、選ぶべきして選んだ」ように思えるかもしれない。でもそんな物は所詮、結果論に過ぎず、人生における重大な決断なんて自分が思うほど特別な瞬間ではなくて、割と場当たり的に選択されていくものであり、だからこそ、夥しく繰り返される平凡な日常の一瞬一瞬の中にドラマがある。二つの大きな軸が交差するラストで、そんな宣言をされた気がしました。
本作の原作者は、アレクサンダー・ペインの大傑作「ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!(感想)」の原作者でもあるトム・ペロッタ。サヴァーヴィアをキーワードに、何かが繋がったように思えました

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