宮崎駿とコミューン幻想 〜崖の上のポニョ〜

崖の上のポニョを観ました(109シネマズMM)。

宮崎駿曰く「アンデルセンの「人魚姫」を今日の日本に舞台を移し、キリスト教色を払拭して、幼い子供達の愛と冒険を描く」。そんな映画であるような気もしますが、同時に大きくタガが外れた老人の狂気が濃縮された一本であるようにも思えます(詳しくは皆様も劇場で確認してみたら良いと思います)。
宮崎駿という人は、一貫して「クローズドなコミュニティ」を描いてきた人であると思います。「風の谷」に暮らすナウシカ、「炭鉱町」で暮らすパズー(その後は海賊船)、エボシが長を務める「たたら場」、そして千尋が奇しくも労働する事となる「湯屋」。クラリスが幽閉されている「カリオストロ公国」も、単位で言えばコミューンと言って差し障りは無いでしょう。
今回の「崖の上のポニョ」でも、小さな漁師町が舞台となっていて、やはりそこだけで完結した世界として描かれています(大型スーパー的なお店に買出しにいく重要なシーンあり)。主な舞台となるのは主人公:宗介が暮らす丘の上に建つ家、宗介の通う保育園/宗介の母が働くデイケアセンター(保育園と併設)、そしてその対として、ポニョが生まれた広大な海。
象徴的なのは宗介が暮らす丘の上の家で、なんと家の横には家と同じぐらいの大きさの給水タンクが備え付けてあります。家には発電機も備えられており、これならちょっとした有事の時でも充分に対応可能。小さなコミュニティを理想とする宮崎駿が、今回あからさまに提示してきたのが、両親と子供が名前で呼び合う、という点。これは正に、子供も大人も一人の独立した人格としてみなされ、そして肩書きだけの「親」に異議を唱え、まさに「血縁に依存せずとも共同体が子を育てる」という理想の表われなのでしょう(その良し悪しは別として)。同世代の子供(保育園)、大人(親)、親の親の世代(ケアセンター)と、完結した世界の中でも、幅広い世代の人々と宗介を交流させているのが非常に印象的です。
「ポニョ」制作にあたって、大きな影響を及ぼしたと言われる一つに、ジブリの企業内保育園(ジブリで働く人達の子供たちを預かる)「三匹の熊の家」の完成が大きかったというような事が各所で言及されています。

少し前に破壊屋さんに、興味深いエントリが上がっていましたが、現実ははるかその先を行っていたようです。
この施設の完成に至るまでに、おそらくリアルに幼児たちと触れ合ったであろうこと、そしてその親の世代である(駿から見れば十分に)若者達と触れ合ったであろうことが、「ポニョ」の作風に大きな影響を及ぼしているのかもしれません。
ポニョと宗介のリアルな5歳児コミュニケーションとか、急に帰って来れなくなった航海士の夫(宗介の父)に対して「こっちは夜の準備も万全だったんだよ!」とばかりに少女のようにムクれてみせる母親には、そこはかとないエロスを感じてちょっとドキドキしてしまいました。

追記:乱暴な運転も含め、宗介の母親に対する否定的な意見が多いようですが、自分は、まさか夢にも思わなかった山口智子の好演もあって、非常に好感を持ちました(若い頃のドーラってあんな感じ?)。こういういわゆる“現代女性”的な感覚は、今までの宮崎作品にはなかった新たな感覚、という気がします(駿があともうちょっとノッたら、鼻や唇にピアス、もしくは腕とか足にワンポイントの刺青でも入っているかのような感じ)。
あとはショックだったのが、「千と千尋の神隠し」で千尋を演じた柊クンの扱われ方。

婦人:柊 瑠美 ポニョと宗介が出会う、赤ん坊を抱いた古風な女性。
キャラクター紹介にはこうあります。「千と千尋」完成時に「僕には柊クンと同い年ぐらいのガールフレンドが何人かおりまして、その子たちに喜んでもらえたら、オジサンの勝ち」とデレデレーっと語っていた宮崎駿でしたが(横にはそれを聞いてドン引きの柊クン、という素晴らしい画)、もはや柊クンは「赤ん坊を抱いた古風な女性」ですよ・・・。柊クンも20歳、彼氏の一人でも出来るだろうから、デートの場面でも目撃されて父王の逆鱗に触れたのでしょうか・・・。