Deep Thraot/Thought 〜サムサッカー〜

サムサッカー」を観ました(@シネマライズ)。
マイク・ミルズの長編デビュー作。意外にも、予想より地に足の着いたその作風にビックリ。これは00年代の家族のあり方を巧みに描いた秀作だと思います。
お話自体は“地味”と言ってしまっても良いぐらい、至ってシンプル。オレゴンのとある郊外都市住宅を舞台に、17歳になっても「親指しゃぶり」が止められずに悶々とする高校生ジャスティンと、彼と関わりを持つ人々を、独特なタッチで切り取ってみせます。
中でも印象的なキャラクターは、ジャスティンの父親と母親でしょう。彼らは息子に「マイク」「オードリー」と、自分たちのことを名前で呼ばせます。こうした親子の決め事に象徴されるように、彼らは親として子供っぽい一面を覗かせます。父親は怪我が元で、アメフトの選手を諦め結婚したが、いまだにその夢を諦めきれないでいるように見える。母親は母親で、しがないテレビドラマの俳優にうつつを抜かせている。
例えば、今の40代の大人(ちょうどジャスティンの両親の世代)に比べて、一昔前の同じ40代が随分“大人”に見えるのは、随分早くに「責任のない子供のままでいたい」という事を諦め、大人であることを受け入れざるを得なかったからではないか?と考えてみます。一概に何とも言えませんが、それには現代の生きる上での「情報、そして選択肢の多さ」も関係しているように思えます。
「自分の人生は、こんなはずではなかったのではないか?もっとマシな暮らしがあるのでは?いや、もしかしたらまだやり直せるのでは?」と自分の人生を振り返る人々を、現代の(そこそこ裕福な)郊外に住まわせてみれば、そこには「簡単に諦めてしまって良いのか?」という、モヤモヤとした葛藤が生まれるのは必然という気がします。
“諦めること”を“受け入れること”。仮にそれを成長とすれば、「サムサッカー」は現代における親の世代と子の世代の成長を描いた物語と言えるでしょう。親は、もはや子供が必ずしも自分達の言い成りにはならないという諦めを受け入れ、子は親が完璧な指針を与えてくれるという希望を諦め、それぞれはお互いを受け入れ、認め合います。
そして遂にはジャスティンは、物語の核心でもあり彼の悩みの核心でもあった習癖を“止められない”と諦め、受け入れます。それゆえに、ジャスティンのラストの爽やかな疾走には、様々な諦めを受け入れたからこその“新たな希望”が満ちているように思えます。長編デビュー作にして、一見普遍的でありながらも「今」という空気を丁寧にすくい取ってみせたマイク・ミルズに、まずは拍手を贈りたいです。

サムサッカー」公式 http://www.sonypictures.jp/movies/thumbsucker/