「ブロークバック・マウンテン」を観ました(@シネマライズ)。

20年間に渡って逢瀬を続けてきた二人。ただその二人とは、お互い伴侶を持つ「男x男」だったのです!…と、中村正のナレーションが聞こえて来そうなぐらい、真っ当な不倫物のラブストーリーでした。ただ、そのオーソドックスさこそ、アン・リーの狙いだったように思います


この映画には、同性愛を題材にした映画にしては革新的とも言える重要なシーンが登場します。それは、「男と抱き合って激しくキスを交わす夫を目撃してしまう妻」というシーン。普通の映画の文法で言ったら、「ゲイなのでは?と疑いだす妻」などと、ゴハンをもう二、三杯ぐらい引っ張れるシークエンスではあるのですが、「4年ぶりにウホッ再会→家のすぐ裏でハグ&ブチュ〜→妻が市原悦子的に目撃→『ガーーーン!!!』」と物凄いスッ飛ばし感です。まるで「もうイイじゃん!ヘテロ側の疑心暗鬼とかさ!」と暗に言われてしまった感じで新鮮でした。つまり「ヘテロがゲイに目覚める?あるよ!ある!そんなの全然ある!」とデフォルトで描く事は、もう「セルロイド・クローゼット」で解説していた数々の映画のように、メタファーとして描かなくとも「カウボーイの男同士が魂を焦がしあう!わかるだろー?!なー!」という、作家(監督)による「理解出来ないとか言わせない」宣言であるように思えます
以降も、「お互い家庭があるので上手いこと逢瀬を重ねられない」「回り近所の目が・・・」「積み重なっていくあきらめや焦燥感や倦怠感」といった感じで、男と女の不倫物と置き換えても何ら変わりはありません。ただ、そこに感情移入するのは「立ったまま寝ちゃうジェイクかわいいかも☆」という男性だったり、「あーアタシも女と浮気するより許せないかも!」という女性だったりと、いわゆるヘテロ同士の不倫物では提示されない「もしも自分が、もしくは自分の伴侶がゲイだったら…」という「可能性の視線」であり、その可能性を想定することはヘテロの人々のゲイに対する「寛容/不寛容」の感覚に影響を及ぼしかねないとも言えるのです。
「アン・リーは優れた監督だが、“カウボーイのゲイのラブストーリー”を観るのはちょっと厳しい」という意見をどこかで読んだような気がするのですが、そんな人たちこそ観るべき作品であると思うし、今後もゲイ映画という文脈だと、ある種のターニングポイントとして語り継がれるであろう作品だと思います


今回、内に秘めた潜在的な同性愛の扉をジェイク・ギレンホール演じるジャックにこじ開けられてしまうイニスを演じるヒース・レジャーが中々素晴らしいです。後半の疲れ切った感じなど、とても実年齢が20代後半とは思えない枯れっぷり。「ロード・オブ・ドッグタウン(感想)」でもイイ枯れ具合でしたが(「マギー・メイ」を聴きながらボードを磨くシーンがグッっときた)、あれとはまた一味違った「枯れ」を見せてくれます
 ちょっと若い頃のヴァル・キルマーみたいにも見える。
  
キラキラと輝いていた二人がカラカラに…映画の後半は、二人のジワジワと疲れていく感じがとても良いです。
不倫物として連想したのが、マーティン・スコセッシの「エイジ・オブ・イノセンス。年々疲れ切っていく感じや、わかっちゃいるけどやめられない感じが非常によく似ていると思います。この作品のダニエル・デイ・ルイスと、「ブロークバック〜」のヒース・レジャーの“報われないであろう”感もかなり重なります

映画のクライマックスには忘れ形見を用いた泣かせ所があるのですが、はてなにも忘れ形見にまつわるこんなに感動的な名エントリがあったことを思い出しました