「すぐやる。」


その車内に人はまばらだった。時間は10時過ぎ、ラッシュは少し前に終わっている。私は先頭車両の運転席側、一番端の席に座っていた


しばらくボーっと車窓を眺めていると、一人の男が乗車してきて、私の向かいの席に座った。歳にして35〜40歳ぐらい、ヨレヨレのチノパンに、茶色いコーデュロイのジャケットといった身なりで、ヘアースタイルは坊主頭だった。まるで荒川良々が老けた様な感じである。私はその男の胸元に注目した。左手に何やら薄くて白いカード状の物を持ち、イヤフォンが両耳へと伸びている
一瞬「iPod?こんな人はiPodで一体どんな曲を聴くんだろう?」と思ったのも束の間、よく見るとそれはカードラジオだという事が解った。なぁんだ、と目を背けたその刹那、男は
「コユウザ・・・エンラク!」
と独り言を喋り出した。乗車客もまばらなその車内に、一瞬で緊張が走った。皆、視線を逸らせながらも、全神経をその男に集中させているのがよくわかる。私も目線は車窓にやっている振りをして、持てる全ての神経を集中させた。すると男は
「・・・田中角栄!」
と、一段と声を張り上げた。いや、独り言ではない。男はラジオを復唱しているのだ。コユウザ、エンラクというのは、あの小遊三と円楽だろうか?すると聞いている番組は「笑点」?こんな時間に笑点を放送しているのだろうか?仮に笑点だとして、何故そこに田中角栄が?私が知らない間に、そんな名前の噺家がデビューしたのか?それとも、大喜利のお題が「歴代総理」か何かなのだろうか?そんな思いを色々と巡らせていると、男はおもむろに
「・・・マッチ!」
といって、車内の床に空っぽのペットボトルを立てた。立てられたそのペットボトルを見て、やっと私は男が飲料水の名前を言ったということに気付いた。私は男の持つ左手のカードラジオに気を取られているばかりに、右手で男がペットボトルを持っていることに全く気付いていなかったのだ。電車は走り続けているので、空っぽのペットボトルは当然すぐに倒れ、所在無さ気に車内の床を転がった
続けて私は横目でチラチラ見ながらも、男に全神経を傾ける。すると今度は携帯電話を取り出した。携帯はどうやらジョグダイヤルらしく、しきりに右手の親指を動かしている。誰かにメールでも出すのだろうか?すると男はこう切り出した
はてなダイアリー!」
ネットだ!携帯で、しかもよりによって「はてな」を覗いている!私は頂点に達した動揺を何とか隠しながらも、男の隣のカップルに目を逸らした。するとどうだろう、カップルの男の方、学生のような身なりの若い男の子が、荒川良々似の男を直視していた。女の子の方は「(そんなに)ガン見するのやめなよ〜」とでも言いたそうに男の子の袖を引っ張っている。私は男の子の半開きになった口のその奥、彼の心の声が聞こえた気がした
「この人もはてなやってるんだ・・・」
きっとそう言いたいに決まっている。さっきまで、その男の存在までもを無視しようとしていたのに「はてな」の一言で全てが変わってしまった。男の「はてなダイアリー!」という一言で繋がった、いや繋がってしまったのだ。そんな私と男の子の動揺をよそに、男は音読を始めた。
「アップルのiMac G5欲しい!11/30までにおこなわれた『アップルのiMac G5欲しい!キャンペーン』に惜しくも外れた方にも朗報!たくさんのご応募に感謝を込めて、12月1日から1週間、iMac G5プレゼントに再び挑戦できるキャンペーンを実施します。12月7日までに前回と同様、日記に”アップルのiMac G5欲しい!”と書き、さらに”iMac G5が当たったら、○○○に使いたい!”というあなたのプランをお書きください。抽選で1名様に iMac G5を、外れた方の中から10名様に iTunes Music Card(2,500円相当)をプレゼントします・・・」
こんなアナウンスを、こんな状況でされるとは思ってもみなかったので、私はつい「あ、リ・エントリーできるようになったのか」という脊椎反射をしてしまった。すると男は
「アップルのiMac G5欲しい! アップルのiMac G5欲しい! アップルのiMac G5欲しい!」
と連呼し始めた。もうダメだ。頭がクラクラする。私は悪い夢でもみているのだろうか?夢であって欲しい、私は別にアップルのiMac G5など欲しくない!と思った。何とかしてその男の「アップルのiMac G5欲しい!」という連呼から意識を逸らそうとすると、今度は運転席から微かに声が聞こえた気がした。
「・・・ちゃん好きだー」
運転席と車内を隔てている硝子のせいでよく聞き取れないが、確かに運転席から声が聞こえてきた。
「アイちゃん好きだー!」
今度ははっきり聞こえた。どうやら運転手が叫んでいるようだ。アイちゃんが好き。愛の告白だ。しかも一人で。運転席には運転手しか見当たらないが、その彼はどうやら運転しながら愛を叫んでいるようだ。アイちゃんって一体誰だ?私は意識が朦朧としていく中で、運転手が「アイちゃん好きだー!」を連呼し始めているのを何とか確認した
「アイちゃん好きだー!アイちゃん好きだー!アイちゃん好きだー!」
「アップルのiMac G5欲しい!アップルのiMac G5欲しい!アップルのiMac G5欲しい!」
二つのフレーズはそれぞれがユニゾン的に増幅し、次第に同調していった。有り得ないことだが、右の耳からは「アイちゃん好きだー!」、左の耳からは「アップルのiMac G5欲しい!」という声が、同じ音量で聞こえ出したのだ。私は徐々に気が遠くなり、そしてついには完全に気を失った




気がつくとそこは私の降車駅だった。乗客は誰もいない。どうやら私以外の乗客は全て下車し、折り返し運転で発車しようとしている所らしい。私は慌てて電車から飛び降りた
会社への道すがら、さっきの出来事が夢だったのか現実だったのか、ずっと考え続け、そして判断に困っていた。そのままボーっとしながら会社に到着し、そしてオフィスのフロアで派遣社員の女の子に話し掛けられてやっと意識がはっきりした
「あ、近藤さん、おはようございます!」
おはよう、と素っ気のない挨拶を返した後、私は自分の席についてパソコンを立ち上げた。そして机にあった裏紙をとり、マジックでこう書きなぐった
アップルのiMac G5欲しい!
それだけでは何か足りない気がしたが、それが何だか全く思い出せなかった。フラフラした足取りで、クラクラする頭を押さえながら、「すぐやる。」のダンボール箱にそれを投げ入れた。この「アップルのiMac G5欲しい!」という一行だけでは一体何をすぐやらなければいけないのか、そういったことが全く解らないが、何かを対処しなければならない、という危機感だけが私を覆っていた。頭はクラクラだけでは済まず、ズキズキとした鈍痛を放つようになってきた。そして、依然として「アップルのiMac G5欲しい!」と同じくらい重要だったはずのもう1フレーズを、私は思い出せずにいた。(終)