「コラテラル」を観ました。

まず、自分の感想とほぼ同じ内容が既にWEB上にUPされていたようなので、近いうちにこの人の所に「オメエ、オラの映画評盗んだだな?!」と恫喝しに行こうと思います。
全体的に「脚本がグダグダ」という否定的な意見が多いようですが、自分はそんなに酷いとは思いませんでしたし、むしろ楽しく鑑賞しました。だってコレA級のスター俳優をヒールに迎えた黒人映画なんですよ!
そもそもブラックエクスプロイテーション作品を観る際に、「脚本がグダグダ」なんてそんな些細なことは気にもしないでしょ!?乱暴に言ってしまえば「トルク」を観て「脚本がなってねえ」とか言うのと同じです。平凡なタクシー運転手がプロの殺し屋と渡り合うのに、殺し屋が完全無欠だったら話が面白くなるわけがありません。「コラテラル」に対する多くの否定的な意見である「脚本のアラ」は、「そんなの有り得ない」物語を牽引する力でもあるのです。
恐らくマイケル・マンが描きたかったのは、「ヒート」や「インサイダー」にあるような、偶然が必然を呼び絡み合う(ってしまう)、異なる二つのパーソナリティの衝突でしょう(今回は実際に衝突するしね)。そこに重点を置いた時、それによる物語の綻びを切り捨ててしまう潔さ。作家が語る物語としては、むしろそっちを評価するべきではないでしょうか。
話を黒人映画に戻しますが、マンがその方向へ傾倒しているは火を見るより明らかです。「雨のシーンの撮影で『オレ様に水道水を浴びせようってのか?!』と、わざわざミネラルウォーターを降らせた」という伝説を持つ、ブラック・イズ・プラウドなウィル・スミスにアリ役を振ったマンのセンスは非常に正しいと思います。「コラテラル」でも、物語は完全に黒人のタクシー運転手ジェイミー・フォックスの視点で語られます。彼が「リモのサービスを始めるんだ」というささやかな夢を抱いていること、ハッタリで窮地を切り抜けるところ、女性にジェントルなところ、こうした些細なポイントをちゃんと描いているあたり、マイケル・マンがブラザーイズムに傾倒しているのがよくわかります。
そしてトム・クルーズです。「プロの殺し屋がサイレンサーも無しで街中でブッ放すのはおかしい」という意見もありましたが、「ズガンズガン!」と派手なノズルスパークに照らされるトム様と、サイレンサー付きの銃で「プシュプシュ」とかチマチマやるトム様、どっちがカッコ良いと思いますか?何故トム様は夜の闇に溶けるようなダークスーツでなく、淡いグレーのスーツで白髪交じりのロマンスグレーなのでしょう?それは黒人ジェイミー・フォックスとの対比に他なりません。マイケル・マンは話の構造だけでなく、ヴィジュアル面でもこうした配慮を怠らないのです。
きっと今日もダウンタウンの映画館で、白人の殺し屋に反撃する黒人のタクシー運転手に自らを投影しつつ、ブラザー達は「いけ!あのグレイヘアーのマザーファッカーをやっちまえ!」と狂喜しているに違いありません。彼らの間で「コラテラル」が新たなマスターピースになるのも時間の問題でしょう。
↓以下は粉川哲夫氏の「コラテラル」評。非常に共感しました。
〜トム・クルーズが、彼の殺し計画の資料が入ったカバンをたまたま奪った街のチンピラをまたたくまに撃ち殺してしまうシーンに「スカッと」しなかった者がいるだろうか?〜