「アメリカン・スプレンダー」を観ました。

アメリカのコミック史において、「成人男性の目線で日常を描く」という新風を吹き込んだコミック脚本家にしてジャズ批評家の、ハービー・ピーカー氏の半生を描いた作品です。
この映画は非常に革新的な手法を用いています。それは「再現ドラマ番組としての伝記映画」です。具体的に言えば、芸能人の過去の出来事を面白可笑しく紹介する「いつみても波乱万丈」や、素人のトラブル等を面白可笑しく紹介する「こたえてちょーだい!」や、世界で起こったとんでもないニュースを面白可笑しく紹介する「ザ!世界仰天ニュース」などです。これらの番組には、司会者やコメンテーター、そうした出来事に関わった当人などが出演し、それらの事象に対して「突っ込み役」の機能を果たします。この「アメリカン・スプレンダー」が他の伝記映画と比べて革新的なのは、劇中にハービー・ピーカー当人が平然と「よぉ、俺ハービー。飛行機だけは勘弁ナ!」と登場する所です(ハービーだけでなく、その奥さん友人も当人が登場します)。そして、この突っ込み役としてのピーカー当人の起用は、奇しくもこの映画における一つの重要な問題点を浮き彫りにしています。それは「現実と再現ドラマのバランス」という問題です。
上記の番組の最大の売りと言えば「ドラマチックに再現された『再現ドラマ』」でしょう。日常の些細な事柄から劇的な事柄までを、ドラマチックに再現してからこそ「いや、それは大袈裟ですが…」とか「いや、まんざらウソでもないんですよ!」という当人の突っ込みが機能する。ところが「アメリカン・スプレンダー」の場合、監督・脚本のコンビであるシャリ・スプリンガー・バーマン&ロバート・プルチーニの2人に欲が無さ過ぎるのか、ピーカー当人を投入する事は作品全体の構成にどういった化学反応を及ぼすか?という点に単に無自覚なのか、再現ドラマを淡々としたタッチで綴るのです。
もちろん、全ての映画において過剰な演出が功を奏する訳ではありません。だがしかし、「アメリカン・スプレンダー」は「成人男性の日常を描く」というコミックです。その作家を題材にした映画で描かれる日常さえも淡々としているのは如何なモノか?と思うのです。何せ、この映画で自分が一番ドラマチックに感じたシーンはピーカー当人の「カルテ係を35年勤めた病院の引退パーティ」の映像だったりするのですから。
過去にあった事実を、再現としてフィルムに刻むこと。「シンドラーのリスト」のラストは何故ああでなければならないのか?それはスピルバーグという人に「あこぎな作劇術を成立させるためには、現実の重みを最大限に利用すべし」という意識と確信があったからこそでしょう。本作の監督・脚本のコンビ2人には、もう少し欲を持って作品全体に向き合って欲しかった。韓国の公立映画学校に「あこぎな作劇術(褒めてる)」を2、3日でも勉強しに行ったら良いと思います。
かと言って「全く淡々とし過ぎている」という事もなく、例えばピーカーとロバート・クラムが出会うシーンは現実より劇的に描かれていたり(つってもガレージセールで出会うか単に会いに行っか、だけの違いですが…)、終盤の見せ場でジョン・コルトレーンのキラーチューン「マイ・フェイバリット・シング」が流れたりなど、適度にドラマティックなシーンは存在します。
色々と批判めいたことを書きましたが、ピーカーを演じたポール・ジアマッティは文句無しに素晴らしいし、「アーティストと一般市民の境界線」といったテーマを垣間見ることができたり、一見の価値はある作品だと思いますので、ご興味を持った皆さんは是非ご自分の眼でご確認なさってみてはいかがでしょうか?