「スパイダーマン2」を観ました。

前作はアンクル・ベンが言うところの「大きな力には大きな責任が伴う」というテーマを、ピーター・パーカーがヒーローの宿命として受け入れる決心をするまでが描かれていました。今回のテーマは、と言えば差し詰め「内なる自己との対面」といった所でしょうか。今作では主人公だけでなく、サブのキャラクターも内なる自己と対面する事になるのです。
ピーター・パーカーは、プライベートも犠牲にしなければならないヒーローとしての自分に嫌気がさしています。メアリー・ジェーンは結婚を控えて「本当にこの人で良いの?」とマリッジブルーです。ピーターの友人ハリーは父親の後継ぎとして順調に会社を運営しているように見えますが、亡き父の呪縛からいまだに逃れられず、父の命を奪ったスパイダーマンに復讐心を燃やします。そして今作の悪役となるドクター・オクトパス。核融合の実験により誕生してしまった4本のアームが内なる自己として語りかける「野心家としての科学者」は、本来の自分であるドクター・オクタビアスの「倫理を重んじる科学者」と対面することを余儀なくされます。
しかし、最も「内なる自己」と戦っているのは監督であるサム・ライミかも知れません。彼が対面するのは「スプラッター映画作家としてのオレ」です。今作でも、ドック・オクのアームが暴走するシーンで、セルフパロディとも言えるチェーンソーが象徴的に登場しますが、オールドファンの期待も虚しく血シブキを飛散らせることもなく床にボトっと落ちるだけです。前作もそうだったと思いますが、「スパイダーマン」では、ライミは人が残虐な死に方・殺され方をするシーンを意識的に避けます。恐らく「2」でピーター・パーカーが葛藤の末に辿り着いた決心のような物が、ライミにとって、この企画に着手すると決めた時点で封印した「スプラッター映画作家としてのオレ」だったのかも知れません。
それぞれのキャラクターは自分が出した答えにより「内なる自己との対面」に決着を済ませますが、ハリーのみ「内なる自己(亡き父)」との葛藤が激化されるであろう展開を示唆しながら、今作は幕を閉じます。
前作に比べて活劇としてパワーアップをしていると思いますが、難を言えばメアリー・ジェーンの「フィアンセはいるけどピーターも気になるの…」という設定は、少々描き方が物足りず「ただの自分勝手な女」に成り下がってしまったような気もします。キルスティン・ダンストのファンとしては、その辺りが残念と言えば残念でした。自作でもピーター、MJ、ハリーのドラマは描かれていくとは思いますので、大いに期待をしたい所です。