再考「スクール・オブ・ロック」

大ヒットしているようですね。それも幅広い層に。しかし、一部のロックを愛する人々からは「なっちゃいねえ」「ロックじゃねえ」「あんなの学芸会じゃん」との声も聞きこえます。
私もこの映画は「ロック」してないと思います。その代わり、この上なく「メタル」してるんです「スクール・オブ・ロック」は。タイトルは「スクール・オブ・メタル」とか「ハウス・オブ・サンダー(とかファイヤー)」にした方が良いと思います。
「ロックンロール」と「ハードロック・へヴィーメタル」は根本的に違います。「ロックンロール」を奏でるのは「サーチ&デストロイな初期衝動型な人」で、「HR/HM」を奏でるのは「真面目で不器用な人」だからです。
私が考える「ロックンロールな人」とは、「セックス、ドラッグス&ロックンロール」という枕詞があるように、基本的に「それが無いと社会で生きていけないんじゃないか?」というような人を指します。真の意味でそんな人が、先生として他人に何かを教える、なんていうお話が果たして成り立つでしょうか?まず不可能だと思うし、無理に成立させようとすればウソ臭くなると思います。
そこで「HR/HMな人」とはどんな人なのか?と言いますと、基本的には上記の「ロックンロールな人」に憧れて育った人々です。憧れは熱意に、熱意は真摯さに。「HR/HMな人々」は真剣に過去のロックンロールを研究・学習し、真摯にロックンロールに向き合います(※ HR/HMな人々にとって「ヘビメタ」は差別用語であり、そうした名指しには露骨な嫌悪感を示します)
「HR/HM」というジャンルは、80年代にこそ盛り上がりを見せましたが、90年代のグランジ・オルタナの到来と共にその活気も衰退します。私もかつてはメタルキッズでしたが、HR/HMの回顧主義とマンネリさが「ダサい」と感じ、次第に離れて行きました。でもジャンルを問わず色々と聴き倒した果ては、「巧妙なリフ」「ドラマチックな展開」といった音楽的構造に惹かれ、再びHR/HMに聴き返すことになるのです。そしてそこで目にするのは、自分が高校時代に見ていたのと同じ髪型の伊藤政則だったり、自分がHR/HMリスナーだった頃とほぼ変わりがないバンドが第一線で活躍する様だったりするわけです。
これを回顧主義と切り捨てるのは簡単でしょう。でも「HR/HMな人々」には、たとえ主要メンバーの脱退あったり、レコード契約を切られたりしても、なんとか活動を続けていくというバンドが多数存在します。これは「ファンの期待を裏切らない」という「真面目さ」と、「HR/HMしか出来ないから」という「不器用さ」に裏打ちされている気がしてなりません。どんな音楽が流行ろうと、どんなファッションが流行ろうと、彼らはプードルのような長髪で、ピタピタのレザーのパンツを履いて、「ドクロ」「ドラゴン」「悪魔」「神話」といった小中学生必須のアイテムを従え、HR/HMを鳴らし続けるのです。もちろん、そんな彼らも流行に流されたりもします。しかし、それを意識した時は必ずと言って良いほど、音にも格好にも垢抜けない「トホホ感」を醸し出してしまうのです。
話がそれましたが、そんな「真面目で不器用なHR/HMな人」が、ロックンロールへの「DeepLove」を吐露する映画、それが「スクール・オブ・ロック」だと思います。
ジャック・ブラック演じるデューイは「移民の歌」の真似などを用いて「ロックは顔だ!」「ロックはキメのポーズだ!」と「お子様たち」に説いてみせます。もちろんそれはロックの本質ではなく表層に過ぎません。でもそれは限りなく本質に近い表層なのです。「エアギター」という言葉があるように、最初は誰だって真似から入ります。だから学芸会で良いのです。要するに「学校」は出発点で、後は「ザ・マン」が支配する社会で、どうしたら「ロック」していけるか?「本質を見つけられるかはお前ら次第!」という投げかけこそがこの映画の本質ではないか、という気がします。
なので、是非とも監督のリチャード・リンクレーターには、その後の「ザ・マン」が支配する社会へ飛び出した子供達を描いて欲しいと思います。そこには学校で教わったロックの真似事ではない、本当の「ロックンロール」が、文字通り転がっているはずだから。


★ OMAKE 「おしゃべりJB
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