菊地成孔東大ゼミ第9回(7月1日)

「1969〜1975年のマイルス・デイヴィス(2) 70年代とは如何なる時代だったか?」

まずは簡単に70年代全体の言及。大雑把に言うと、前半はグダグダで、後半、本当に終わり近くになって景気が良くなっていく。前半の「泣きっツラに蜂」とも言える72〜3年のオイル・ショック。75年のベトナム戦争終結は、89年のソ連崩壊まで続く事になる「冷戦の時代」の始まりでもあったという事。
そこで70年代の幕開けにマイルスはどうだったか?と「IN A SILENT WAY」を例に挙げます。マイルスの67年までの3作(「E.S.P.」「SORCERER」「NEFERTITI」)によりモーダル・コーダルが楽理的に1つとなって、ジャズ理論・分析理論としてのバークリー・メソッドが一度進化を止め、学校で教える学問体系としての限界に直面して以降の教条的に捉えられない音楽生み出してしまった。マイルス自身は、こういった音楽を幻想的・黒魔術的に捉えたわけです。マイルスは単一モードを用いる手法に、それをさらにアグレッシブに進化させた形で回帰していきます。具体的には、単一モードを基本に置きながらも、そこから気ままに・自由に、他のモードに常にアウトして行く「モーダル・アウト」という手法です。「自由・気まま」と言うと気楽な感じですが、そういった楽しい感じでは無くて「幻惑的・魔術的」なニュアンスです。小原理が群発・並立している「NEFERTITI」までの手法をさらに、自由と解放度を増して「ディシプリン」をさらに柔らかく、もしくは無くす方向に向かわせた手法とも言えるでしょう。
ここでのポイントとして「アンプリファイア/電気楽器の導入」があげられます。ジャズの歴史において重要なのが、アコースティック時代の主要楽器ピアノ、ウッド・ベース、トランペット等々といった物が、バッハ時代からの機能和声に対応して作られたツールで有るという事。その残滓が、ビバップに代表されるモダン・ジャズ、コードが進行して行くバッハを根源に持つ音楽であるが故に「バークリー・メソッド」を可能とし、楽器の特性と音楽の構造の相性が良かったという点です。それが破られる時期として電気楽器がジャズの世界に登場するのです。
そしてサイン波についての言及。簡単に言えば構造的な雑音・倍音等を一切含まない純化された音の事ですが、12音平均律の音楽における理論的な到達形として、このサイン波の加算のみによって全て音楽を組み上げて行くという極めて西洋的な考え方が有ります。サイン波に純化し、「調律」させて行きたいといった西欧的な欲動に反して、非西欧圏の楽器は、ジャンベでもビリンバウでも鼓でも三味線でも、楽器そのものが持つ基本波に既に倍音・ノイズが含まれている。「倍音・ノイズの顕在化」に伴なう音自体が持つ情報量の増大は、「濁り易くなる」が故の機能和声の成立への大きな障害と成ります。これは「ド・ミ・ソ」を何回重ねても全く濁りを生じさせない、純粋なサイン波による音楽構築への欲動と正反対に位置し、「アンプリファイア」と「サイン波」は対極に存在する事となります。マイルスが導入したアンプリファイア、さらにその延長上にあるフィードバック・各種エフェクトによる倍音・ノイズの顕在化、とそれによる楽器のノイズ・マシーン的な使用法は、一種「民俗楽器」に近い在り方とも言えます。「反近代」もしくは、非常に「疲れ」を伴なう、近代で在る事「ディシプリン」からの脱却とも言えるのでしょう。
アンプリファイアの導入については、ロックからの援用となりますが、ロックンロールとその原型であるブルースの音楽構造がノイジーディストーションを早くから多用していたといった話では無く、そのリズム構造・和声構造自体が、特に複雑な和声構造を持たず、また「ブルース進行」自体が、機能和声的には異端の存在「脱近代的」で有ったが故に、「電化/アンプリファイア」と相性が良かったという事が原因と考えられます。反面ジャズは、バッハを根源に持つ機能性を大きく引きずっていたが故、「濁り」に対する反発は大く、ジャズ理論は「モード」を経て「脱バッハ」「脱近代」に向います。「モード」と「アンプリファイア」は相性が良く、「アンプリファイア」は「濁らせる」という目的を持っていたので、倍音の強調、あらゆるエフェクトによる音色変化、フェンダーローズに代表される定位の変化、といったあらゆる「脱バッハ」的な楽器の在り方がもたらす秩序の混在による「ミスティフィケイション」が、所謂「マイルス・マジック」の一端を担っていたと言えます。
この時期のマイルスについてもう一つ重要なポイントとして「磁化/じか」が挙げられます。これは「磁気テープ」上への録音と編集の事で、それまでの一発録りによる「ドキュメントとしての録音」から、各パートをバラバラにクリックを用いて多重録音し(クリック、拍を明示する為にメトロノーム的に用いられるリズムマシン等/和異名ドンカマ)ミックス・ダウンの工程を経て完成形とする。さらに録音した素材を「テープ編集」する事により、演奏のリニアな時間的な流れを時後に可変する事を可能にするといった流れを総称します。これに伴ない機能和声進行による楽曲の「ノベル/物語性」が無化。例えば桃太郎の紙芝居の順番を替えて、桃太郎が勝った場面を最初に出して、その後誕生の場面を出すといった風な表現によって、機能和声の意味が更に喪失して行きます。多重録音もテープ編集も、技術としては元々存在していたのですが、ジャズにおける即時性(スポンティニアスなインプロヴィゼイション)・生演奏の一回性と機能和声を重視するという大きなドグマによって、一部の例外を除き、これらの技術の導入はアンタッチャブルな領域となります。この「ブラックボックス」をマイルスと(プロデューサーである)テオ・マセロが「グッ!」と開き、「ジャズなのに多重録音し・ジャズなのに編集する」という手法によってこの時代の作品を作り上げて行ったのです。
そして「ではリズムの話をしながら『ON THE CORNER』を・・・」と皆で聴くこととなります。まず、しばらく何処がアタマなのか判然としない。でもしばらくするとBASSが16分音符で「ドドッ」と弾く所がアタマとわかって来る(セッションも勿論その解釈で行われている)。一体何故、このような編集をするに至ったか?それは編集権限を持ったプロデューサーが、小節アタマを「1拍半」カットした所から曲が始まるように編集し、このようにトリッキーに聴こえるように仕向けた「編集者の意図」である、と。
「何で、テオ・マセロは、ここで切ったんでしょうか? 間違えたんでしょうかねぇ?」
「諸説、有りますね。ここで切ったら訳分かんなくて面白いと思ったとか」
アフリカ経由の「ファンク・フィギュア」は、ウラ・オモテが、ひっくり返っても問題無く成立する音楽の代表ですが、反対に大問題となるのがバッハに根源を発する西洋音楽のうち、特に「ステップ」と共に機能する音楽である「マーチ」や「ワルツ」。BPMの変化に際してもファンクは特に問題は無く、「遅いファンク」か「早いファンク」になるだけ。これはファンクの構造である「フラクタレーション性」が、基礎単位の発展から構成される構造を持っているためで、最小単位と最大単位が同じ形のまま繋がっているからである、と。こういった編集行為によって、楽曲が・演奏者が関知せぬまま、結果的に全く違った形で完成する部分には「編集者の優位性」が感じられます(これは映画とも共通している点でもあるのです)。
1969年のある辺りから1975年までのエレクトリック期のマイルスは「コカインで訳わかんなくりつつヤケクソで発狂している」という「発狂期」であるという言及。その他の時期でもマイルスは常に「クール・ビューティー・スターで有る事」を追求していたのですが、復帰後を含め、この時期はこのまま行ってコカインやアルコール等々でボロボロに成って遂には「焼死→引退」をすると。
40年代から現役の最前線であり続けた人が、初めて引退状態となる事によってある種の決壊が外れ、ジャズ界は「楽しくて・気持ち良い物へ!」と一気に向かい、「おぎゃー!と生まれたその時がピークだった」というフュージョンが登場します。
BREEZIN'/GEORGE BENSON(1976) マイルスが活動している時代も、影ではきっと『こうすれば、ああすればもっと売れるのに』とか言われていたはずで、その引退によって、とにかく気持ち良くて・楽しくて『これで良いじゃん♪』といった志向に加速がかかります。この状況はある種のシンメトリーとして、チャーリー・パーカーの死後、ビバップの難しい所を取り去り、デザイン重視でポップ化を図った「ハード・バップの隆盛(1956)」を思い起こさせます。「アンチ・ポップの巨匠」の死によって、ポップの濁流が流れ込むという構造が20年の時を経て甦ったように思えます。モーダルの音楽のソフト化・シティ化と言えるクロスオーバー・フュージョン。1976年のこの種の音楽への需要の増大は、「スペース・エイジ・バチュラー・パッド・ミュージック」として、やはり50年代のラウンジ・ミュージックがもてはやされた事に繋がっていると考えられます。「イイ湯加減具合でリラクシン’チルアウト最強説」の一例としてウェス・モンゴメリーの「A DAY IN THE LIFE(67年)」のラウンジーなカバーも紹介していました。驚くべき事には、このヴァージョンが制作に着手されたのは何と「サージェント〜」発売の僅か5日後(!)で有るという事です。未だ世の中が発売直後騒然としていて、それこそ『良い』だとか『悪い』とか言い始めていた頃、既にこのヴァージョンの制作に着手している、A&Mのドン・セベスキーというプロデューサーの『売れる物なら何でも良い』という思想の徹底には驚くべき物が有る、と。和声進行による「物語」がモードによって無化されて、それを洗練させる事によって「チル」が生じる。簡単なリズム上に簡単なモードを乗せただけでの「チル」では物足りなく、もっと能動性が求められて「キメ」が重視される事になる。「キメ」による物語的なダイナミズムの付加、これがフュージョン時代とも言えるのです。
バークリー・メソッドは70年代前半こそ「お手上げ状態」といった感じでしたが、76年以降、AORやシティーミュージックといった分野で、コード進行やモーダルインターチェンジにおけるリラクゼーション以上の緻密さを求められた局面で、ジャズ理論では無くポップス等のソフィスケーションの為の理論として持ち上がって来ます。
そのポップスのソフィスティケーションとしての「マンハッタン・トランスファーの肩パッド」に軽く触れながら、第9回の講義はお開きとなりました。


いやぁ〜しかし長っ。音楽が解っていない人間がまとめていますので、詳しくはそっくりもぐらさんの菊地成孔東大ゼミ非公式ウェブサイトのBBSをご覧下さい(というか、自分も講義で取ったメモと、ほとんどはコチラを参考にさせて頂きまとめているだけなんですが・・・)。


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