セックス・トリクルダウン『フィフティ・シェイズ』三部作

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 グレイ・エンタープライズCEO:クリスチャン・グレイ(ジェイミー・ドーナン)は、出身大学の学生新聞の取材を受ける。取材当日に社に現れた英文科の学生:アナスタシア・スティール(ダコタ・ジョンソン)は、会話を進め親交を深める内にクリスチャンにある〝素質〟を見抜かれ、ある〝契約〟を結ばないか?と持ちかけられる。それはアナが「従属者(サブミッシブ)」、クリスチャンが「支配者(ドミナント)」となって性交渉をし、その一部始終は決して口外しないという内容。当初は断る気でいたアナだったが、次第にクリスチャンに惹かれていき……

 「フィフティ・シェイズ」シリーズは、上記のように幕を開ける「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」、一作目の終わりの別離から関係修復~プロポーズまでを描く「フィフティ・シェイズ・ダーカー」、そして結婚~ハネムーンに始まり、外部の人間により二人に危険が迫る…というのが現在公開中の「フィフティ・シェイズ・フリード」の三部作である。

 全世界で1億部以上と言われるベストセラーを映画化したトリロジーは、〝マミーポルノ〟などと揶揄されるも、映画版にはこれまで百万回は繰り返されてきたであろう手垢にまみれたロマンスにBDSM(Bondage,Discipline,Sadism & Masochism)という要素を巧妙に配置し、それを求心力に観客の好奇心を煽るというアプローチを取っており、「そりゃ売れるわ」と単純に感心してしまった。

 しかしながら映画三部作は、一作目「~グレイ」でこそ先記のような「ロマンスとSMのマッシュアップ」というコンセプトを成立させていたものの、二作目「~ダーカー」、三作目「~フリード」とシリーズを重ねるごとにBDSMという要素は徐々に前菜か付け合わせ程度の扱いになっていき、どちらかというと手垢にまみれたロマンスの方が主体となっていく。それは何故なのか。

 一作目「~グレイ」のメガホンを取ったのはサム・テイラー・ジョンソンという女性監督である(監督作に若き日のジョン・レノンを描いた「ノーウェア・ボーイ」などがある)。STジョンソンが「~グレイ」で試みたのは、BDSMに基づいたセックスをある種の〝異世界/新世界〟として切り取るというアプローチであったように思う。プレイルームと呼ばれる赤を基調とした荘厳な部屋で、アナとクリスチャンは性行為に耽るのだが、この映画の肝となる重要な幾つかのセックスシーンを、シーマス・マクガーヴェイのカメラが豊かに美しく掬い上げている。そんな中でも印象に残ったのが、「挿入前にコンドームの袋を口で引きちぎるクリスチャン」というショットであり、これをわざわざインサートしたSTジョンソンには、ありふれた性行為の描写〝以上〟のメッセージがあったに違いない。

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 ところが、二作目以降は監督が変更となり、ジェームズ・フォーリーという男性監督が引き継ぐことになる(「摩天楼を夢みて」「NYPD15分署」などで知られる)。二作目以降に明らかなのは、セックスシーンの凡庸さである。日常の延長としてダラダラと始まり、多くの映画で見られたような平凡なカット割りで綴られる、可もなく不可もない性描写。クリスチャンの施すプレイに反応するアナの様々な表情・身体を収めていた「グレイ」とは対照的に、「ダーカー」「フリード」ではクリスチャンの筋骨隆々とした背中や激しく突き動かされる腰などの方が強調される。アナが仕事中にクリスチャンとのセックスのことを思い出してしまう、という編集が「フリード」に見受けられるが、これも個人的には〝如何にもな男性目線のセックスファンタジー〟という感じで何だか鼻白んでしまった。

 サディズム、マゾキズムに役割を割り振った上での性行為は、基本的には暇と財力を持て余した一部の金持ちが、更なる快楽を求めて邁進してきたジャンルのはずである。「フィフティ・シェイズ」三部作にたびたび登場する「プレイルーム」には、その装具や寝具やその他の道具には、ズッシリとした歴史の重みが感じられる(現代上流社会の乱行という側面を描いた「アイズ・ワイド・シャット」という映画もあった)。本来こうした「一部の富を有する者がアクセスできた」SMを、(成人指定ではあるが)娯楽映画の中で〝ある象徴〟として描くことには啓蒙の意味もあるはずである。

 「フィフティ・シェイズ」シリーズは、手垢にまみれたロマンス/シンデレラストーリーとSMプレイとのマッシュアップによって、観客に何を与えただろうか?

 三部作で描かれる様々な道具を用いたセックスは、完璧に再現するには無理がありそうだが、創意工夫次第では庶民でも真似できそうなプレイも多々あるように見受けられた。カップルで映画を鑑賞し、「同じようなことをやってみよう」と実際に試みた人々も、世界中の上映国でカウントすればおそらくとてつもない数になるであろう(多くのプレイは必ずしも挿入を前提としていないので、ヘテロ以外のカップルにも様々な対応が可能である)。大富豪カップルが謳歌する初デートでのヘリ飛行、クルーザーでの航行、豪華絢爛な仮面舞踏会。これらを一般庶民は指をくわえて眺めることしかできないが、だがSMプレイは、一作目でアナが働く街の金物屋にクリスチャンがロープや結束バンドを買いに来たように、日用品でも代用が可能である。

 元々は「トワイライト」の二次創作物として作者のELジェイムズが書き上げたのが「フィフティ・シェイズ」シリーズの発端だそうだ。ウェブでの絶大な支持を得て刊行となるが、作者も支持者も既婚であったり子供を持つ主婦であったりすることから「マミーポルノ」という呼称が与えられたらしい。そのユーモアを自虐的に、肯定的な意味で捉えている人も多いかも知れないが、随分と馬鹿にしたカテゴライズであるようにも思う。

 ここで小説と映画によって蒔かれた種が、後世にどういった形で発芽するのか、あるいはしないのか。人類の「エロ」に関する知的欲求は尽きることがないであろうから、その内に時間の経過が証明してくれるはずである。