テリトリアル・ピッシングス「桐島、部活やめるってよ」
※オチの解釈に触れているので未見の方は注意
例えば自分の思春期を振り返ってみた時、あの「己の領域」という頑なさは一体どういう融通の利かなさだろう?と思うところがある。いや、今だって十分に融通が利く性分とはいえないが、それにしたってもう社会人であるし、同じ場で待機を余儀なくされた見ず知らずの人に「暑いですね」と話しかけたりするぐらいには大人になっているものである。
高校生なんていう年頃はその点、一番厄介ともいえる時期であり、下手に人が寄ってくれば「鬱陶しい」と思い、心が折れそうな時だけは何も声をかけてくれない他人に対して「世界はかくも冷酷なのか……」と絶望したりする。非常にメンドクセーお年頃なのである。
この年頃のティーンが持つ、独特の「領域」という感覚。それは理解者=「自分が認めた友人」に限定してそのサークル(輪)を設定し、自分と関わり合いのない人々のサークル、つまりはサークル同士が交流するようなことはあまりなかったように思う。ただ、中にはレアケースもあり、それはこの映画の宏樹(東出昌大)がそうであるように、互いのサークル内を気兼ねなく行き来し、皆に分け隔てなく交流する人物もいたりするのである。
この「領域」の「不可侵」に対する頑なさ、それは様々な形で描写される。わかりやすい例を挙げるなら、映画部の前田(神木隆之介)が屋上で撮影したいと、そこで練習中の吹奏楽部の亜矢(大後寿々花)と交渉するシーンであろう。前田は、日が暮れる前に撮影を済ませたいので少しだけ(フレームに入らないような位置に)さがってくれないか?と亜矢に申し出る。
ここで亜矢は、いかにもな本音と建前で、その申し出を拒否する。建前は「ここでないと音の広がりが…」というような理由。本音とは、映画本編を観て貰えば一目瞭然の理由である。
しかしここでいう彼女の本音と建前は、どちらも切実な本音であって建前はおそらく存在しないのである。そうした決め付けを極度に嫌うのがこの年頃のティーンであり、よって彼らは本音や建前を指摘しない相互理解が前提の「サークル」を作って防護する。映画部という「サークル」で、本来は理解者であるはずの顧問の教師が排除されるのは、彼が前田の「ゾンビ映画」を否定したからであり、この教師が前田や他の部員たちの領域を侵したために他ならない。
先に例に挙げた「領域」とは具現化していて非常にわかりやすいものである。そしてこの他に、もっと深い部分の、人には言い辛い、いや親しい友人だからこそ言い辛いパーソナルな、アイデンティティーに関わってくるような領域も、ティーンエイジャーなら持ち合わせているはずである。「桐島、部活やめるってよ」では、終盤も終盤、ほとんどエピローグと言っても良い部分で、それが明確に提示される。
そのエピローグ。わざわざ一人だけだけ残った宏樹は、何故あそこで涙ぐんだのか?それはおそらく、その類の言葉をかけられるのが初めてではなかったから、ではないか?
ともすると最近、誰かに同じような言葉を投げかけられたからではないのか?
その結果、一体何が起きたのか?
野球部の主将は、何故ああまでオレに甘いんだろうか?
沙奈(松岡茉優)とのキスは、どうしてこうも他人事のように感じられるのだろう?
そして、桐島は、何故学校に来なくなってしまったのだろう?
決して人には言わない/言えないけど、オレだけはそれを知っている。