女と女と疑惑の中「クロエ」


大学教授の夫(リーアム・ニーソン)が、生徒と浮気をしているかもしれない。気が気でなくなった妻(ジュリアン・ムーア)は、偶然知り合った若い女(アマンダ・セイフライド)が娼婦であると知ると、彼女にこんな依頼をする。「私の夫を誘惑して」と。
情念系サスペンスとして幕を開けて終盤にはサイコサスペンスに転じる、90年代に流行ったような手垢の付いた題材を、何故わざわざアトム・エゴヤンが……?という疑問は予告を観た時から拭えなかったが、いざ蓋を開けてみれば「アトムのエゴやん!」としか言いようがない、底意地の悪さに満ちた傑作だった。

「あの人が浮気をしている!証拠を握って、突きつけてギャフンと言わせてやる!」というモチベーションが発端だとすると、若い娼婦にハニートラップを依頼したことから物語は予想もしなかったツイストを見せ、終盤には妻と夫の立場はまるで逆転してしまう。
こうしたパワーバランスのひっくり返り方は、昨年の怪作「ストーン」を思い起こさせる。主要キャラがほぼ二組の夫婦だけであった「ストーン」同様、「クロエ」でも主要な登場人物は「夫・妻・娼婦・夫婦の息子」の四人のみで、それはまるで濃密な舞台劇のように展開する。舞台となるのも夫婦と息子が暮らす邸宅と、街のカフェ、クラブ、そして温室と、これまた数えるほどである。ミニマルな登場人物、ミニマルな舞台で描かれる愛憎劇は、物語が進行するにつれてそのレイヤーを増やし、そして来るべきしてやって来る、ある衝突によって幕を閉じる。
これはJ.G.バラードが「クラッシュ」で行った研究報告のように、何らかの媒介を用いないと「性」と向き合えない人々を描いた物語と言える。しかしながら「クラッシュ」での「それ」は無機物である車だったから良かったが、「クロエ」の場合はそれが血の通った人間である。
エンドロールで「Amanda Seyfried as CHLOE」とクレジットされることでもわかるように、これはある悲しき娼婦の物語と言える。映画は彼女の内面に触れることを巧妙に避けて、彼女が起こすリアクションによってのみ、彼女の無自覚な絶望を浮き彫りにしていく。果たして我々は、彼女がとった最後の行動を「復讐」や「狂気」といった簡単な言葉で片付けられるだろうか?
アトム・エゴヤンは「あなたにとって、優れた脚本は?」との問いに
「可能性が詰まっていて、少しとらえどころがなくて、完全に明白ではなく、どこかに発見を残している脚本」
と答えている。カナダが生んだ鬼才は、(よりによって)ハリウッドデビューとなる本作の終幕で、観客に意地悪く語りかけるのである。

クラッシュ (創元SF文庫)
J.G. バラード
東京創元社
売り上げランキング: 260321
ストーン Blu-ray & DVDセット(2枚組) [初回限定生産]
ワーナー・ホーム・ビデオ (2011-04-13)
売り上げランキング: 7586