実在性少年/少女「ジョニー・マッド・ドッグ」


内戦下のリベリアを生きる少年兵の物語。チンチンに毛も生え揃ってないような子供たちが、リアルな殺し合いに身を投じている日常。それは一体どういったものなのか?
今ちょうど読んでいる四方田犬彦の「驢馬とスープ」という本の中で、四方田先生は「人はなぜ書くのか?」と題し、生前親交のあったロラン・バルトの言葉を引用して、こんな風に語っています。

バルトは書いている。
心の底から悲しいとき、人は「自分は悲しい」とはいわないものだ。巨大な厄難に出会った人を慰めるために手紙を書くとき、直接に「わたしは悲しんでいます」とは書かないものだ。もちろんいいたいことはその通りなのだが、それをそのまま書くことは滑稽なことである。では、どう書いたらいいか。別のことを書くことで、なんとか相手に自分の悲しみを知ってもらうしかない。文学が誕生するのは、そうした瞬間である。

相当に歪んだ民兵組織の理念(詳しくは語られない)の元、リベリアの罪もない一般市民を殺してまわる少年兵たちの狂気の行軍。それが「ジョニー・マッド・ドッグ」で描かれている現実です。これはもう本当にどうしようもなくドン詰まりで、何をどう正せば良いのか検討も付かず、劇中に登場する大人たち同様、スクリーンのこちら側の観客も、ただただ傍観する他ありません。
本当に酷くて、悲しくてやりきれないくて、そういった感覚さえ麻痺してしまうような想像を絶する絶望的な状況。それを描くにはどうしたら良いのか?リベリアで二年間、実際の少年兵たちに取材を続け(何人かは映画に出演もしている)、フランス人であるジャン=ステファーヌ・ソヴェール監督が、バルトの言うところ「悲しみの代替」として何を描いたのか?それはシンプルな「戦時下のボーイ・ミーツ・ガールの物語」でした。
主人公である少年兵所ジョニーの蛮行と、足のない父親と幼い弟を従え、戦火の中を凛とした表情で避難し続ける少女ラオコレ。この二人の様子が対照的に描かれますが、ある時点で二人は鉢合わせになり、実際に点と点が交わることとなります。その後、ひと時離れては終盤でまた交差し、それぞれの内情が語られていきますが、個人的な感想としては、この試みはあまり有効に機能していないように思いました。どうしても「年端もいかない子供たちを巻き込んでの壮絶な殺し合い」という闇の深さに負けてしまっているような気がしました。
そこへいくと、同様にブラジルのゲットーを描いた「シティ・オブ・ゴッド」では、「実」の中に「虚」を潜ませる手腕が絶妙だったな、というように思います。
あとはシェルミッケドムという架空の国の少年兵を主人公にした伊藤計劃さんの「The Indifference Engine(「虚構機関」収録)」のことも思い出しました。「ジョニー・マッド・ドッグ」ではあまり描かれなかった、部族の問題にテーマにした傑作短編です(一応「虐殺器官」のスピンオフということになっている)。
それにしても、リベリアの子供たちの褐色の肌と、鮮やか過ぎるブルーの土壁のコントラストは、どうしてこんなに美しいのだろう?と呑気に考えてしまいました。

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