上書きされる「ドラマティック」 〜君のためなら千回でも〜

君のためなら千回でもを観ました(@109シネマズ川崎)。

ネバーランド」「主人公は僕だった」の監督、マーク・フォースターによる新作はアフガニスタンを舞台にした映画で、ポスターから想像するに「少年同士の友情もの」「カイトランナーという原題で、凧が重要なアイテムとなっている?」というぼんやりとした像しか捉えずに劇場に向かったのですがこれが大正解。出来る限り前情報は無しで観た方が良いのですが、とりあえず「かなりハードな内容」であるとだけお伝えしておきましょう。
まもなく自作が出版される作家のアミールのもとに1本の電話がかかる。電話の主は、祖国アフガンからでアミールの父の友人ラヒム・ハーンからだった。彼はアミールにこう告げる「まだやり直せる道がある」そこから物語は1978年に遡る・・・
ちょっぴりミステリアスな導入部から、お話は幼い頃のアミールと、アミールの家に召使として仕えるアリの息子:ハッサンとの間の、凧を通じての甘酸っぱい友情物語が描かれていきます。身分の違いを越え、二人はどんな時でも一緒。最高のパートナーのように意思を通わせる至福の日々が綴られますが、そこから一転、悲しい別れは誰にも望まれない形でメソメソとやってきます。この切ない別れは、子供の愚かさや残酷さや不器用さ、それらが全て綯い交ぜになって、最悪の形でやってくる。そして、それと重なるようにソ連軍の侵攻が暗い影を落とします。
結果、裕福な家庭であったアミールは父親とアメリカへ亡命、そうでない貧しい家庭の子ハッサンはアフガンに留まる事になります。ここまでが大体折り返し地点ですが、この後、後半にはとんでもない展開が待ち受けていました。
詳細をここで記すと面白さが半減してしまいますので、細部の言及を避けますが、とにかく「昼ドラもかくや」という強引かつ力強い展開に、もうただただ言葉を失いました。9.11以降、タリバンが勢力を増大させてきたアフガンの、ただでさえマッチョなイスラム社会で、女子供がどれほどの辛い仕打ちを受け、そしてどれほど人々の心は荒廃し、絶望する事にさえ疲れ果ててしまったのか。そんな市井の人々が強いられてきたの苦難の象徴を、この映画はある少年に託しています。
いくつか読んだレビューの中では「後半がご都合主義的でガッカリ」という意見がありましたが、自分はそうは思いませんでした。後半と前半は、いわばそれぞれが合わせ鏡で、前半に蒔かれた伏線が後半にはバシバシと回収されていき、因果とか輪廻とか、そんなキーワードが頭に浮かびます。ベタと言えばベタな物語を、それだけのものに貶めていないのは、一見強引な展開ながらも「不安定なアフガニスタンの情勢」という、取扱いが非常に難しい問題を真摯に描こうとしているからであり、物語性というものは「状況下」によっていくらでも上書きされていくものなんだな、ということが良く解りました。
追記■コラムの花道「君のためなら千回でも」
町山智浩氏のポッドキャストで聞くことができるのは「映画が公開されると映画に出演したアフガン在住の子役(およびその家族)に生命の危機が迫る」ことに対してドリームワークスが取った手段とは…?!これちょっと凄いです。リアル「シンドラーのリスト」かよ(ってアレが実話か)。


「君のためなら千回でも」の前日にはペルセポリスを観ました(@チネチッタ)。

イラン出身、パリで活動する漫画家:マルジャン・サトラピが自伝として発表したグラフィック・ノベルを、彼女自らの脚本を書き、監督として映画化。イラン革命に端を発する近代イラン史を、少女の成長物語として描いた長編アニメです。
利発な女性がイスラム圏に産み落とされると自分が置かれた状況を俯瞰で見ざるを得ないが、外の世界(ヨーロッパ)に出て行くことで自らのルーツやアイデンティティに対する思いをより強固にする、と、彼女自らが自虐的なタッチで綴ります。描かれている年代が「君のためなら千回でも」とほぼ同じなので、併せて見るのも良いかも知れません。