フラワーズ・フォー・クッキーズ 〜主人公は僕だった〜

「主人公は僕だった」を観ました(@チネチッタ)。

ハロルド(ウィル・フェレル)は、国税庁に勤める平凡な男。とある朝から、彼にはナレーションのような女性の声が自分にだけ聞こえるようになる。その声はまるで小説の様に、断続的ではあるがハロルドの行動を実況するようになり、困惑した彼は、文学を専門とするヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)に助けを求めるのだが…というお話。
導入部は上記のような感じで、以降「ある女流作家エマ・トンプソンが執筆している新作小説の主人公とハロルドがリンクしている」という展開になるのですが、ここまで来て私はある映画を思い出しました。

ネバーエンディング・ストーリーです。
この映画でも「現実世界」と「お話の世界」とが「繋がってしまう」という現象がテーマでした。お話を読み進めると現実が進行し、現実と共にお話も進行します。「主人公〜」での作家が「ネバー〜」ではバスチアンといういじめられっ子に(物語の決定権を握っている)、国税局員ハロルドが「はてしない物語」の勇者アトレイユに(その道程が物語となる)、という基本構造も同じ
「ネバー・エンディング・ストーリー」では、荒唐無稽なストーリーを当時最先端だったVFXが支えていましたが、「主人公は僕だった」を支えているのは、何と言ってもヒロインを演じるマギー・ギレンホールでしょう

肩にガッツリ墨を入れ、パン屋を切り盛りする若き女主人アナ。店内にはクラッシュアップセッターズが流れ、お店の名前は「The Uprising」。んなパン屋あるかい!と突っ込みを入れたくなりますが、彼女がパンキッシュな意思表示をする所以である過去も語られていき、堅物であるハロルドとの恋の行方を否が応で盛り上げます。
「ネバー・エンディング・ストーリー」のラストには、現実とお話が融合し「いじめっ子にギャフンと言わせる」という“等身大の奇跡”が起こりますが、「主人公は僕だった」でも些細な奇跡が物語をハッピーエンドに向かわせます。主要な登場人物に悪人が居らず、最後まで愛情溢れる視線が注がれているのも印象的でした