王妃は“ソレ”を我慢できない 〜マリー・アントワネット〜

マリー・アントワネットを観ました(@渋東シネタワー)。

映画自体は至ってオーソドックス。オーストリアからフランスに嫁ぎ、そしてギロチンにかけられる直前までを描く物語。私は未読なのでよく解りませんが、多くの日本女性からすれば「ベルばら」でも綴られた有名なお話を映像化しています。では何故こうした「幾度となく繰り返し語り継がれてきた物語を今更映画化するのか?」その問いには、ソフィア・コッポラがこう答えてくれるでしょう。「違う違う、それはアタシのM.A.じゃないの」。
「私のMAではない」、それは「俺のロックじゃない!*1」と同じニュアンスのモノです。ソフィア・コッポラ版「マリー・アントワネット」は、監督である彼女の手によって、彼女好みの変換が幾重にもなされている映画なのです。
18世紀末の舞踏会には、当時最先端のポップスが流れていて、皆それに合わせてダンスに興じたに違いない。舞踏会ではナンパされたり、気の会う仲間達とオールして、舞踏会明けの朝焼けを迎えたに違いない。靴はスニーカーっぽい靴だってもうあったかもしれない(コンバースがチラっと写る)。宮廷楽団はPHOENIXみたいな素敵なバンドかしら?(これはノロケ) 別宅を与えられれば、宮廷とは違うオーガニックな暮らしを送ったはずだ(離れでハーブを栽培!ロハス!)。そして、マリー・アントワネットだって、マスターベーションをしたかもしれない。
物語の後半、退屈な毎日に飽き飽きしているマリー・アントワネットは、ルイ16世にも相手にして貰えず、自室へと駆け込みます。そこに流れるストロークスの「what ever happened?」はこんな歌詞。

I want to be forgotten And I don't want to be reminded
You say "please don't make this harder"
No, I won't yet

I wanna be beside her She wanna be admired
You say "please don't make this harder"
No, I won't yet

一時、浮名を流したフェルゼン伯爵を想い、ベッドで切ないような、あるいは恍惚としたような表情を浮かべるマリー。彼女が妄想する“戦地で勇ましく馬に跨り、爆風を背にキメショット”のフェルゼン。私は当然「あ、オナニーするんだろうな」と思いました。
が!そこでそのシーンは終わりなんですよ!!!
何も「ロスト・ハイウェイ」のナオミ・ワッツほど頑張れ、とは言いません。手をスカートの方に持って行く、そこでフェイドアウト。それで充分。後は観客が個々に察するはずです。でも、そのシーンはあっさりカット。「これだけ記号を並べておきながら逃げるのか!日和やがって!」と思いました。
映画で繰り広げられるソフィア・コッポラによる「これがあたしのM.A.」という、たわいない主張。それらは全てガジェットに過ぎません。しかしながら、その「世界(まぁ主に日本)を揺るがすガーリー映画」の文脈の中にもし、王妃の自慰シーンがあったら、個人的にはもう少し評価が上がったような気がしました。
作品の印象をもう少々。ランス・アコードの撮影が素晴らしいです。キルスティン・ダンストは文句ナシに素晴らしかった。朝「寒いのに!早く服着せてー!」というソワソワ演技を観て、凄く芝居のセンスのある人だな、と思いました。ノアイユ伯爵夫人を演じるジュディ・デイヴィス、メルシー伯爵を演じるスティーヴ・クーガン(「24アワー・パーティ・ピープル」の人)らが脇で光ります。そしてマリア・テレジアを演じているのは…!衝撃は劇場でご確認下さい。

ジェイソン・シュワルツマンのルイ16世も良かったです。彼が嬉しそうに錠前の薀蓄を語るのですが、これは恐らく一瞬だけ付き合ったクエンティン・タランティーノのことなのでしょう。そして、ベルサイユ宮殿を追われることになる終幕は、地獄の黙示録で破産したパパ:フランシス・フォード・コッポラを見つめる娘の視線なのではないか、そんな風に深読みする事も出来ると思います。



*1:2004年ロックオデッセイで稲葉浩志のライヴを観た男性が「これは俺のロックではない!」と火災報知器を鳴らしてライヴを妨害、逮捕された事件