毎日が誰かの誕生日 〜16ブロック〜


「16ブロック」を観ました(109シネマズMM)


夜勤明けで憔悴しきった中年の刑事が、ある証人の護送を命じられる。「勘弁してくれ」という彼に上司は「ほんの16ブロック(約1.3〜1.6km)の距離を運ぶだけだから!」と無理矢理押し付ける。その証人が一部の警察内部を揺るがす事件の証人だとはつゆ知らず、渋々護送を引き受ける刑事だったが…というお話。


モス・デフが出演している」ということ以外はあまり期待していなかったのですが、意外や意外、これが大傑作でした。オールドスクールなバディ物。リチャード・ドナー、久々の快作と言っても良いでしょう。
ちまたの好意的な評では「モス・デフがラッパーならではの早口で捲し立てるような演技が良い」という意見が目立ち、それはもちろんなのですが、映画を観て感じたのは「ああ、台詞回しとラップって全く別物だなぁ」という事でした。
モス・デフのバックグラウンドにあるような、ニュースクール以降に盛んになったのいわゆる“フリースタイル”のシーンでは、リトゥンライム(つまり、予め用意された、既に書かれたライム)は蔑みの対象となり、真のフリースタイルは即興のライムにあり、という傾向が強く見受けられます。フリースタイルシーンの成り立ちなどは、以下のDVDが詳しいです。

FREESTYLE: THE ART OF RHYME [DVD]

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フリースタイルのシーンで切磋琢磨してきたモス・デフにとって、予め用意された台詞がある映画など、ある意味容易い表現なのでしょう。しかし大違いなのは、そこに感情表現が伴い、そしてそれがフィルムによって切り取られる、という事。ラップをするのにももちろん感情表現を伴うでしょうが、100人が見たら100人が「ああ、この人は今、悲しいんだな/嬉しいんだな」と理解できるのが理想である映画の感情表現とは、“似て非なるもの”のはずです。そして、一人でもできるラップに対して、映画での演技の場合は大抵“共演者”と対峙しなければなりません。
「16ブロック」では、対立しながらも、同じ思想の元、心を通わせていく二人の男の姿が描かれています。映画においては、これは掃いて捨てるほどあった鋳型です。モス・デフ演じるエディは「人は変われる」という台詞を繰り返します。時は2006年、上記のような器で、上記のようなテーマを掲げるなんて、完全に“負け戦”としか思えませんが、ブルース・ウィリスとモス・デフの掛け合いによって、それを捻じ伏せる力強さを感じることが出来ました。そこには、ラッパーという輝かしいキャリアを鼻にかけず、一俳優として敬意をもって“共演者”ウィリスと対峙するモス・デフと、シン・シティに続いて老刑事という役回りを演じ、ある種ベテラン俳優の域にあるウィリスが、モス・デフという一人の若手俳優に真摯に接するという構図も垣間見ることができ、その構図こそが「16ブロック」を強力に後押しをしているように思えます。
「フリースタイル:アート・オブ・ライム」の中で、モス・デフはこう言います。「サイファー(フリースタイルでラップをする時、ラップする人を囲う車座のようなモノ)の中でラップをしてると安全なんだよ。だってそうすれば銃撃とか喧嘩沙汰とか、物騒なことに巻き込まれないですむからさ」。ブルックリンのハードな現実を照れ臭そうにサラっと語ってみせる彼が非常に印象的です。ブルース・ウィリスがモス・デフのことを「この映画での彼はまるで天使のようだが、あれは演技などではなく彼の中から自然に出てきた物だと思う」と形容するのも、あながちリップサービスでもないのでしょう。
そんなモス・デフがクライマックスで「バリー・ホワイトはタイヤを300本も盗んだけど改心した!オレだって変われるはず!」と口走るシーンは、緊張と弛緩が同時に訪れる非常に素晴らしいシーンだと思いました。映画のエンドロールでは、そんなバリー・ホワイトの「あふれる愛を」が流れ、幕となります。

Can't Get Enough

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Black on Both Sides

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New Danger

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