あの夏のSLAYER 〜「メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー」〜


「メタル ヘッドバンガーズジャーニー」を観ました(@渋谷シネアミューズ)。


ヘヴィメタルという、あるジャンルの音楽を、「何故メタルは嫌われるのか?」という観点から綴ったドキュメンタリー映画です。監督のサム・ダンは「大学に“メタル学科”がなかったので、仕方なく人文学を選んだ」と豪語するほどのメタルヘッズで、ドキュメントもヘヴィメタルの発祥から、メタルという音楽を取り巻く/いた様々な事象、メタルと一括りにしてもそのジャンル内でも細分化された様々なバンドをフローチャートなどで解りやすく解説しています。
「何故メタルは嫌われるか?」
10代半ばから後半、バリバリのティーンエイジャーにしてメタルヘッズだった自分にとって、そんな問いはハッキリって愚問もイイ所です。つまり「何故嫌われるか?」はそのまま「何故モテないのか?」に変換可能だし、それに対して「そんなモッサイ格好してたらモテる訳ないじゃん!」という単純明快な答えも既に出ています。長髪にデニム&レザー、ピタピタのジーンズ(しかもノビノビ仕様)、今でこそ80'sファッションは多角的に再評価されるようになってきましたが、自分が一番メタルを聴いていた頃、90年代前半ぐらいは「そろそろああいうカッコねえよな」という空気がプンプン漂っていました。
RAINBOW -ALL NIGHT LONG
服なんて、好きな服を着ればイイんです。モッサイ男達の中に、伊達男風に一人だけ短い髪を撫で付けタレサンをかけ田舎ヤクザみたいな純白なジャケットを纏おうが、歌が上手いんだからイイんです。ヴォーカルという仕事をちゃんとこなしていればそれで良いのです。
ただ、メタル界というのは、「メタルとはかくあるべき」といった美意識に固執し続けているような所があります。枠組みを外れる、という事に対して、過剰な拒否反応をおこす様な面があります。それというのも、以前「スクール・オブ・ロック」の感想でも書きましたが、メタルを奏でる人々の大半が「真面目な人たちであるから」に起因しているような気がします。映画の中でのロブ・ゾンビの発言でもあるように「メタルファンは、死ぬまでメタルファンなんだ。パーマネントに『あ〜○○年の夏はSLAYERをよく聴いたよな〜』みたいな聴き方をする奴は一人もいないよ」といった具合に、メタルというジャンルは真面目で頑固な人々がかなりのコアなユーザーを占めるジャンルであるということがわかります。
この「ヘッドバンガーズ・ジャーニー」も、ある種の理想的な「メタルを紹介するドキュメント」という形から、一歩もはみ出していないことがよく解ります。それは恐らく監督でありホストでもあるサム・ダンという一人のメタルおたくが、「オレの(メタルの)ドキュメントとして美しくないから」という理由で、色々な面倒な部分を切り捨てているからです。
この作品の結論、それはid:yamazaki666さんがこのエントリで仰っているように「メタルが毛嫌いされるのは、人間が見たくない・見せたくない真の姿を表現しているから」といったモノで、それではあまりにも優等生過ぎます。自分もメタルヘッズとして、実写版ビーヴァス&バッドヘッドのような高校生活をおくってきた一人のメタルファンとして、どうしても解せなかったのは「ニルヴァーナの登場」と「パンテラなどを筆頭にしたモダンなヘヴィネスの台頭」という、ほぼ同時期に起こった二点の事象にまるで触れないのは、正直どうかと思いました。つまりこの「ヘッドバンガーズ・ジャーニー」というドキュメントは「メタル黎明期から91年(『ネヴァーマインド』が発売された年)までのドキュメントとしてなら優れているが、2006年現在までを描いた作品とすれば、あまりにも色々な事をスッ飛ばしている」と言えるでしょう。
自分の記憶を辿る事とします(以下、オレ的ヘッドバンガーズ・ジャーニー)。
ニルヴァーナの「ネバーマインド」はそれこそ画期的なアルバムで、なんとあのBURRN!でさえ好意的なアルバム評で迎えました。カート・コバーンも初期のインタビューでは「サバスやZEPの影響を受けている」と公言し、実際にアルバムで鳴っている音からもその発言が意図がよく解ります。ここで自分なり極論ですが、仮にニルヴァーナがデニム&レザー&長髪、といったキメキメファッションのトリオバンドだったら、あれほど世界的な成功を収めたか?は、ちょっと疑問だと思います。そう、彼らはそれこそ、そこらの若者なら誰でも着ている普段着(以降、シーンのアイコンとなるフランネルシャツ)で、ボッサボサの頭で、「ハローハローハロー、どれ位ヒドイ?」と同世代の若者に問い掛けたのです。「いちいちステージ衣装とかカッコ悪っ(笑)」という宣言は、明らかに80年代後半に華やかだったグラムメタルに対するアンチです。結果的にそのアンチの声明が若者達に支持を受け、ニルヴァーナ登場以降は、自分も含めメタルから「グランジ」という最新のジャンルに大量のファンが流失し(もちろんファッションだけでなく、その「ヘヴィかつポップ」といった音楽性に惹かれて、という「先ず音ありき」でしょうが)、「オルタナ/グランジ」が一大ムーブメントとなり、そして物凄い勢いで廃れました。こうした自分の中では音楽を聴いてきた上で非常に重要なターニングポイントであった事象があっさりスルーされます。それはやっぱりサム・ダンの思い描くドキュメントでは「うん、そんなこともあったかも知れないけど、それはオレの映画のメタルじゃない」という理由で排除されてしまったのでしょう。
パンテラの登場も衝撃的でした。彼ら(というか故ダイアモンド・ダレル)が奏でた「ヘヴィでうねりのあるリフ」に、主立ったスラッシュメタルバンドは、早い曲を作らなくなり、みんなして「ヘヴィでグルーヴィーなリフ」を刻むようになりました。メタル史から言えば、今日まで続くヘヴィロックの礎として考えればいくら何でもこっちは非常に重要な意味を持つと思うのですが、これもスルー。恐らく「う〜ん、それも興味深いけど、何故メタルが嫌われるか?に繋げるのは難しい…のかなぁ?」とか言われてしまいそうです(後はフィリップ・アンセルモの坊主頭の影響。私はBURRN!のポスターを教室に貼っていました(見付からないように柱の陰に)。メタリカの(現在は脱退)ジェイソン・ニューステッドが坊主頭になった時は衝撃的でしたね。たかが髪型と言われてしまえばそれまでなのですが)。
追記:思い出したから書きますけど、何とアンドリューW.K.についてもスルー。彼はメタル系のフェスだけに関わらず様々な国内外のメジャーなフェスに出演する程には“嫌われてないメタルのスター”だし、彼にはインタビューするなり(絶対ノリノリで受けたハズだし!)何某かのアクションがあって然るべきだったと思います。90年代、幾多の失笑や冷笑を受け、誰もが“過去の恥ずかしい思い出”として引き出しの奥に仕舞い込んでいた80年代の産業ロック/メタルを、まさか00年代にあんな形で再構築しえようとは、という観点で考えれば、彼も非常に重要なミュージシャンだと言えるでしょう。
(以上、私的ジャーニー終わり)
近年的なトピックとしては、ブラックメタルの諸問題がありますが、これもわざわざノルウェーまで取材に行って「う〜ん、昔からヴァイキングの連中は理解できないなぁ」とションボリしちゃうだけ。この及び腰っぷりも、ドキュメンタリストとしてはちょっとどうかと思います。
サム・ダン(左)とスコット・マクフェイデン(右)
こうして批判的なことばかり書いてきましたが、実は私はこの映画を観て泣きました(エンドロールであんな曲を流されたら…)。↑の画像は監督のサム・ダン(と共同製作者のスコット・マクフェイデン)ですが、こんなピクルスみたいな面白い顔をした人が、悪人なわけがありません。彼のような、恐らくメタル以外の事に関しては不器用そうな(思いっきり偏見)人が、一生懸命「メタルの素晴らしさ」を伝えようとしている感じが、こちらにもヒシヒシと伝わってきて、そこにグッときてしまいました。「メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー」には、音楽を通じて人と繋がる素晴らしさ、メタルの成り立ちからメタル特有のイイ意味での青臭さ、メタルvs社会(ディー・スナイダーのカッコ良さったら!)といった様々な出来事etc…を、愛情溢れる視線で制作者が真摯に紡ぎ出そうとする姿が、そこには見受けられるのです。
あなたがもし、ジャンルに関わらず音楽のファンであるなら、是非この映画を観て頂きたいと思います。

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