「ドミノ」を観ました(@109シネマズMM)。

怪作だと思います。監督トニー・スコット、脚本リチャード・ケリーという、決して混ざり合わないであろう二つの才能を、無理矢理MIXしてしまったが故に出来上がってしまった“物凄く惜しい!”怪作であると思います。



まず、トニー・スコットに比べて圧倒的に知名度が低いリチャード・ケリーですが、彼は2001年に「ドニー・ダーコ」という“サヴァーヴィア青春SF”とでも呼びたくなるような、カテゴライズに困ってしまうような不思議な映画でデビューしました。ケリーは75年生まれで、同世代の作家にはウェス・アンダーソン(69年生まれ)、ポール・トーマス・アンダーソン(70年生まれ)、割りと近い上の世代にサム・メンデス65年生まれ)、アレクサンダー・ペイン61年生まれ)、リチャード・リンクレイター(60年生まれ)、下の世代には“ナポレオン・ダイナマイト”のジャレッド・ヘス(79年生まれ!)などがいます
上記の監督達に一貫したテーマの一つに「キャラ造形への分け隔てない愛」という物があると思います。劇中登場するキャラクターの、メイン/サブに関わらず、個々のディティールをしっかり描くことで、その描こうとする物語全体に愛のある目配せをする。例を挙げれば「ドニー・ダーコ」では、物語の終盤、主人公がある晩にある行動をしたことである現象が起こり、その直後にサブキャラ達の寝顔や、その夜の何気ない様子が次々と映し出されます。私はこのシーンにいたく感動したのですが、きっとトニー・スコット(44年生まれ)ならこう切り出すのではないかと思うのです
「うん、悪くない。でも最後のサブキャラ達を写すカット、あれはいらないんじゃないかな?主人公の行いがぼやけるから」
トニー・スコットと言えば「トップガン」を撮った人です。「ラスト・ボーイスカウト(固ゆで!)」「クリムゾン・タイド(男vs男!)」「エネミー・オブ・アメリカ(バディ物!)」「マイ・ボディーガード(復讐!)」という作風から、良い意味でオールドスクールなヒロイズムをモットーにしている作家ではあると思うのです。そして「ドミノ」でも、トニー・スコットは実在したドミノ・ハーヴェイという女性をヒロイックに描く事に成功している、とは思います
ドミノ・ハーヴェイという女性は果たしていかなる人物だったか?ローレンス・ハーヴェイの娘にして、ショウビズ界からはある程度の距離を置きながらもモデルとなり、企業家として自身のブランドを立ち上げたり、クラブを経営したり、挙句の果てには賞金稼ぎにまでなり、そして映画の完成直後に死んでしまうような女性です。そうしたある種の“トチ狂った人生”を歩んできた人の周りには、必然的に“トチ狂った、しかし愛すべき人々”が寄って来ては離れていったはずです。推測するに、そうした「事実は小説よりも奇なり」というか、いかにもメタ的なドミノという女性の半生や、そんな彼女の周りに集まってきた可笑しくも愛すべき人々にこそ、リチャード・ケリーは興味を抱いたはずです。しかし、残念ながらトニー・スコットにはそうした“メタライフ”を上手く掬い取る才能が欠如しているように思えました。簡単に言ってしまえば、ドミノという女性が非常にヒロイックにカッコ良く描かれてはいますが、サブキャラに対する愛が足りないように感じました。恐らくトニー・スコットには、主人公をヒロイックに撮る事と、その物語を効果的にする(と思い込んでいる)最近メッキリご執心な音楽と映像によるトリッキーな編集にしか興味が無いのでしょう。
例えば、ドミノの賞金稼ぎの相棒として教師的な中年男(ミッキー・ローク)、口数少なく喧嘩っ早いチカーノの青年が登場し、物語の序盤には親交を深めていく様が描かれますが、終盤に至っては「ただ一緒に行動する人」といった感じなっています。アラブ人の運転手というキャラも登場しますが、これも最後には「何だかよくわからない人」になっています。極めつけは「ビバリーヒルズ高校/青春白書」の俳優が本人役で登場する(!)という飛び道具までもを投入、きっと脚本を書いたケリーにしてみたら「確かにくだらなかったよ、ビバヒル。…でも見てたんだよ!!」という愛があったはずですが、これも「テレビ出身のバカ俳優」という位置付けに終わっています
劇中のスティーヴとデイヴィッド
以前「トゥルー・ロマンス」の評に「クエンティン・タランティーノが作り上げた繊細な道路の上を、トニー・スコットがブルドーザーに乗ってアクセル全開でやってくる」というのがありました。確かに、タランティーノ自身が監督していたら「トゥルー・ロマンス」は全く別物になっていたでしょうが、同時にタランティーノが、あの有名なクリストファー・ウォーケンデニス・ホッパーの、見ていてお腹が痛くなるような緊迫したやり取りを演出できたか?と問われれば、それは無理だったように思えます。それは「ドミノ」にも言える事で、ケリー演出で紡ぎ出されたかも知れない物語が無い代わりに、ケリーでは演出できなかったかも知れない、主人公が破天荒な人生を生き抜くヒロイックな物語があるのです
でもリチャード・ケリーなら、トニー・スコットに手によって完成した「ドミノ」のやりたい放題のトリッキーな編集や、ある残虐なシーンにトム・ジョーンズステレオフォニックスの能天気な「mama told me no to come」が流れるシーンを観て、きっとこう言うのではないかと思います
「あ〜・・・こう言うのはもう、別の意味でメタだなぁ・・・」