“都市型新保守主義者”三浦センセイ、かく語りき!

下流社会の感想は少し前に書いたばかりですが(ココ)、どうにも読中/読後のモソモソとした居心地悪い感じを上手く言い切れなかった気がしたので「三浦展」で検索をしていたら、見事にバッサリと言い切ってくれちゃっている素晴らしいブログ(新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜)を見つけました!実は「下流社会」には触れていないのですが、三浦氏の過去の書籍を三回に渡ってキチンと検証していて、非常に参考になりました

前編では『ファスト風土化する日本』を検証。三浦氏は「日本中の地方が衰退し、画一化し、均質化し、“マクドナルド化”し、固有の地域性とは無縁の、全国一律の「ファスト風土」が生まれたのだ!」と定義付けし、「ジャスコ文明と流動化する地域社会」という章からは三浦氏が「郊外の犯罪の近くにはジャスコがある!」ということを仰々しく“発見”してみせたり、「〜私が見た太田市のジャスコには、レオナルド・ダ・ヴィンチの飛行機を模した物が天井からぶら下げられていた。ショッピングセンターは人類の発明だといいたいのであろうか?」といったトンデモな『ジャスコDIS!』を展開しているようで、そこに後藤氏は「『“あの事件”を起こした場所の近くにジャスコがあった!』と仰々しくはしゃいでみる様は見ていて滑稽を通り越して痛い。そんなにジャスコが嫌いなら、なぜジャスコのない場所に三浦氏が問題視するような犯罪が“ない”のか比較してみてはどうか」と突っ込みを入れています

中編では『仕事をしなければ、自分はみつからない。』を取り上げていらっしゃいます。「のんびり派で、その日暮らし派の真性団塊ジュニア世代が、フリーターを選択するのは当然だ。せっせと就職活動をするわけはないし、就職するとしても、気楽な仕事を選ぶだろう。そして気に入らないことがあれば、すぐに辞めるに違いない。勤労意欲が低下していることは間違いない」という根拠の無い『若者DIS!』から始まり、「独立心や将来の希望ももてずただ現状の中で停滞している。中流社会の固定化の中で、価値観の農民化が進んでいると言えないこともない」といった謂れの無い『百姓DIS!』を経由し、果てには「コンビニの食べ物が美味しくなったから晩婚化が進んだ!」というトンデモにまで及ぶそうです。それに対し後藤氏は「フリーターが若年層に対して歓迎をもって迎えられたのはバブル期であり、現在はむしろ職業選択の幅が狭いからフリーターにならざるを得ない、あるいはフリーターになるしかない人のほうが主流になりつつある」という冷静な客観視の元「〜三浦氏の若年層に対する蔑視的な感情は、三浦氏の都市型新保守主義的な思想、すなわち上昇志向を持たない奴はみんな劣った奴である、という差別意識のなせる業ではないか」と検証。「三浦氏にとって、全ての道は“若年層の劣化”に通ず」という名言を残していらっしゃいます

後編は『「かまやつ女」の時代』を検証。「最近、20歳前後の若い女の子の中に、昔の中年男性のような帽子をかぶっている女の子がたくさんいる。髪型はどこかもっさりしていて、服はルーズフィット。全体的にゆるゆる、だぼだぼしている。スカートをはく子はほぼ皆無で、たいてい色落ちしたジーンズか何かをはいている。その風袋がまるでミュージシャンのかまやつひろしのようなので、私は、こういう女の子を「かまやつ女」と名付け〜」という、のっけからトンデモな『今どきの女の子DIS!』に始まったかと思えば、「また、女性らしさを拒むかまやつ女は、そもそも大人になることを拒否しているのではないかとも思える。男性で言えばおたくに近い。おたくは、メディアの助けをかりて自分の世界にこもるので、実社会でのコミュニケーション力が不足しがちだ。かまやつ女もそれに似ていて、メディアに頼ってではないかもしれないが、自分の世界にややひきこもり気味という印象を受ける」とか言い出し、「広告代理店の博報堂のレポートに寄れば、最近の若い男女は夜二人きりで部屋にいても何ごとも起こらないのが普通らしい。……男女が恋愛やセックス抜きにして友達として付き合う傾向が強まってきたともいえるが、他方では性の意識が相当変わってきたと考えられる」とか切り出したり、挙句には「服装はいやでも人の目に入る。人の目にはいるからには、その人にどう思われるかを考えるのが普通の人間だ。それがかまやつ女には欠落しているように感じられるのだ。それは完全な自己満足であり、一種の自閉である」とか言い出す始末(一種の自閉て!)。後藤氏は「ニューズウィーク」のコラムニスト、スーザン・ファルーディのテキストを引用し、消費文化に屈服してしまった大衆的フェミニズムを「消費フェミニズム」とし、その消費フェミニズムと都市型新保守主義は「コインの裏表」である、と指摘。上昇志向を持たない“かまやつ女”をDISり、(身綺麗に着飾る)消費こそが自己実現であり、開放であるという思想の持ち主にして都市型新保守主義者の三浦氏が、消費フェミニズムの罠にはまるのも当然、と結びます


三編とも非常に読み応えのあるエントリーで、ウンウンと膝を打ちつつ拝読いたしました。三浦氏の上記著作を額面通り受け取った方も、是非とも後藤氏の批判と照らし合わせてみてはいかがでしょうか?