「愛についてのキンゼイ・レポート」を観ました(@109シネマズMM)。


インディアナ大学でタマバチについての研究をしていた博士が、タマバチにはひとつとして同じ固体がない事を発見します。それは血縁関係にある人間でも、人格は全く異なるが如く。


人格が異なるなら、それぞれの性趣向はどうだろう?教授とその妻は、お互い性交渉の経験が無い者同士で結婚し、上手く行かない夜の営みに頭を悩ませていました。みんなこういう悩みをどうやって解決しているのだろう?
こういう“性の壁”にブチ当たった時、何某かのガイドラインがあってしかるべきではないのか?「そこに問題があるから、その山に登る」こそ、学者としての本文ではないのか?かくしてアルフレッド・キンゼイ博士は「レッツトーカバウトセックス」と、性の暗夜行路を歩き始めたのでした・・・っていう導入部の伝記映画で、非常に興味深く拝見しました
結論から言ってしまえば、セックスにはノーマルもアブノーマルもなく、そこにはそれぞれの性趣向に対して一般的に言えばマジョリティであるかマイノリティであるかオルタナティブであるかという状態しかなく、定義できる確かなモノは何一つ無い、ということです。パンフなどで「最後にキンゼイ博士が辿り着いたのは、結局一番大切なのは科学では測定不能な“愛”である、ということ」などと安直に結んでいますが、そうした示唆はあるがそれが全ての映画ではないと思います。私はこの映画を「人との距離や個人の道徳を、セックスというフィルターを通して見る映画」だと思いました
キンゼイ博士は全米18,000人以上の無作為に選出した人々を対象に、セックスに関するインタビューを行い「キンゼイ・レポート男性版」を1943年に完成させます。この時点で既に「セックスにノーマルもアブノーマルもない、セックスに普遍性など無い」という答えは出ているのですが、更に突っ込んで突き進んでしまうのが学者の性。研究チームは、老齢の女性と交代で文字通り交わったり、果ては研究チーム内の妻/夫を巻き込んだスワッピング大会(!)にまで発展していきます
ここには、日曜学校で教師を務めながら不道徳な行為を戒めていたキンゼイの厳格な父親への反発があります。偏見の塊の様なガチガチなピュ−リタニズムが発する、セックスに関する謝った情報(オナニー、クンニは体に悪い!etc)に対してのキンゼイの強烈な嫌悪があります。「個を完全に開放するには、まず倫理/道徳から完全に自由にならなければならない」と考えたキンゼイは、同僚の男性とも性的関係を持ったことを妻に告白します。泣き出す妻クララに「君も私以外の男性や女性と交わってみればいい。私はそれを否定しない」と言うキンゼイ。それに対しクララは「婚外性交や同性愛に偏見はないが、あなたを愛しているのでそうしたことはしない」と返します。これは監督であるビル・コンドンの「偏った道徳と、尊ぶべき道徳がある」という密かな主張であるような気がしました
キンゼイはその後も更に調査を続け、今度は女性の性に突っ込んだ「キンゼイ・リポート女性版」を1953年に発表しますが、「女性の性の解放→家庭の崩壊!」という一般世論の圧倒的な反発を喰らい、研究チームも活動資金提供の道を断たれてしまいます。ウーマンリブなどが激化する70年代に先駆けること20年前に、「平等でなければ正確な調査結果にならない」という科学者の目線から、キンゼイはフェミニズムを提唱しようとしていたのです
物語の終盤、「男性版」を愛読し、幼児にまで手を出した男へのインタビューがあります(演じるはウィリアム・サドラー!)。こうした「曲解されてしまうことへのジレンマ」も、この映画の重要なテーマであり、人との距離のとり方の難しさを上手く提示している名シーンだと思いました
最後に一点。私のページには、いまだに「オナニーは体に悪い」という検索で辿り着く人がちょくちょくいるので、そういう人こそ観るべき映画であるし、「改革とカーマスートラを止めるな!という映画であると思いました。
チンコマンコ!(文末で中学生脳が勝手な文字を入力をするソフトが起動しました)