「69 sixty nine」を観ました。

青春映画は大きく2種類に分類することができます。それは「主観(寄り)で語るか・客観(引き)で語るか」という2つのタイプです。最近だと「下妻物語」、少し前の「GO」などは主観(寄り)で、周防正行の「ファンシィダンス」「シコふんじゃった」などは客観(引き)で、という具合に分類することができます。そして「青春時代を振り返る」と言う手法を選んだ場合、必然的に「顧みる」というワンクッションが置かれるので、引きの視線で語られることが多いような気がします。1969年の青春を謳歌する青年たちを描いた「69」はここに分類される作品だと思います。
ところが「69」において、この「引きの視線」を、過剰な編集や漫画的なギミックといった作品中の技法が邪魔をします。こういった人工的な技法は(まぁ全ての撮影法は人工的ですが…)、どうしたって観客にある主観を強要し、それを受け入れ難い観客は「置いてけぼり」にされてしまうのです。では「69」は「寄りの視線」の物語なのではないか?というと、それにしては主人公と友人たちが成長していく過程での微妙な感情のすれ違いや、そこから生まれる葛藤、現状に対する不平不満、そして淡い恋心、といった要素があまりにもあっさりと描かれすぎています。つまり「どっちつかず」という印象を受けるのです。
しかし、ある意味それで間違いは無いのかも知れません。だってこれは多くの人に妻夫木聡の魅力をアピールするための「ツマブキ映画」なのですから。
自分が最初に記憶している妻夫木クンは野沢尚が原作・脚本の「リミット もしもわが子が…」でした。子供を誘拐して臓器売買の為に東南アジアに売り飛ばしてしまう、というヘヴィな内容のドラマで、妻夫木クンは犯人グループの一人を演じていて、そのいかにもな悪ぶった芝居に辟易したものでした。しかしその後「ランチの女王」では竹内結子を慕う純朴な青年を演じ、以降はCMなどにも引く手数多で起用される快進撃っぷり。「ジョゼと虎と魚たち」の好演は記憶に新しい所です。
80年代に量産されたアイドル映画は、今観ると終始「え〜〜〜」といった突っ込みを必要とするような良い意味でも悪い意味でも破天荒な構造を成している作品がほとんどのように思えます。「今、輝いている人で映画を作る」という点を踏まえ、売れっ子の脚本家・意欲的な新人監督を起用する、いうコンセプトは、当時も今もさほど変わりは無い気がしますが、やはり時代が生み出す微妙な溝、という物は計り知れない差があるように思えます。よって、「69」が「2004年のアイドル映画であったか、普遍的な青春映画であったか」という真価は、妻夫木クンの今後の活躍も含め、もう少し時間を必要とするのかも知れません。
役者で言うと妻夫木クン演じるケンの相棒であるアダマを演じる安藤政信は非常に良く、チラッと出てくる井川遥、ヒロインである松井さんを演じる太田莉菜(私的には「ど」ストライクですが、一般的な美少女とはかけ離れている気が…)も良いし、ケンの父親役の柴田恭平嶋田久作演じる体制の象徴たる体育教師も良い。唯一、またもやっちゃったコノ人を除いて…
自分の後ろに、恐らく1969年当時に青春を謳歌していたであろう中年カップルが座っていて、周りの若者たちよりよく笑っていたのが印象的でした。こうしたリアルタイムの世代のダイレクトな反応、というのが、もしかしたらこの映画の正直さを表しているのかも、とも思いました。