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いやぁつくづく「冬のソナタ」って素晴らしいですね。だって、もし「韓流!」やら「ヨン様!」といったブームがこなければ、こんな大傑作が陽の目を見ること無くビデオスルーになっていた可能性がなきにしもあらず、ですから。
簡単に言ってしまえば「ジョゼと虎と魚たち」を更にハードコアした、健常者と障碍者のラヴストーリーです。一体どの辺りがハードコアなのか?男が健常者で女が障碍者、という設定は同じです。しかし「ジョゼ〜」の妻夫木聡が大学生、池脇千鶴は奇病により足の不自由、という設定だったのに対し、「オアシス」の男・ジョンドゥはム所帰り(出たばっか)、女・コンジュは重度の脳性麻痺により会話も容易ではない、といった具合です。つまり観客の感情移入を初っ端から突っぱねます。この2人の周囲には家族やら近所の人がいわゆる「フツーの一般市民」として登場しますが、この人々もどこか冷たかったり、実は鬼畜だったりするので、観客は誰にも共感出来ずにその視線は中に漂い、ただジョンドゥとコンジュの行く末をハラハラしながら見守る事となります。
しかし、2人が交流を深める中で、普通の恋愛をするカップルと何ら変わりが無い事がわかります。一緒に食事をしに行ったり、カラオケに行ったり、男が女の髪を洗ってあげたり、電車や車で移動をしたり。こうした過程を経て、最初こそ引いてしまったであろう観客も、次第にジョンドゥとコンジュという1組のカップルに感情移入することとなります。そして悲劇が訪れます。
悲劇の引き金を引くのは、上記の2人の周囲にいる家族やら近所の人といった「フツーの一般市民」です。彼らの不寛容さや偏見は、ジョンドゥとコンジュを形容しがたい酷さで引き裂きます。
男に対する「トラブルばっか起こしやがってもう我慢ならぬ!」という不寛容さと、女に対する「身体障碍者が恋愛やセックスなどするはずが無い!」という偏見。彼らが少しでも2人に耳を傾ける努力をしたならば起こらなかったであろう悲劇。「こんな事は有り得ない」ではなく「十分に起こりえる事」として成立してしまっている事実こそが、正に現代の悲劇とも言えるのです。
以下は監督のイ・チャンドンの言葉です。
『オアシス』は境界線についての映画といえます。
自分と他者との境界線、私たちと私たちが忌み嫌う相手との境界線、
あるいは「健常者」と「障碍者」との境界線。
また、「愛」という名のファンタジーと現実世界との境界線。
そうした境界線に立つのは落ち着かない気分で、感情的にも消耗するかもしれません。
しかし真にコミュニケートしたいなら、そこから逃れることはできないのです。
ジョンドゥ役にはソル・ギョング。「シルミド」でニヒルなリーダー格の人物を演じていた人です。今回は一転してヘラヘラとしたダメ男を好演していて、とても同じ人には見えません。
コンジュ役にはムン・ソリ。脳性麻痺の顔を引き攣らせたお芝居は、精神的にも肉体的にも相当な重労働だったはずです。時折インサートされる「コンジュが空想する普通に歩き回る私」との対比が何とも切な過ぎます。
クライマックスである「決定的な別れのシーン」は、久しく観る事がなかった名シーンで、ただただ言葉を失うばかりでした。映画史に残るであろうその歴史的なシーンは、まるで韓国のとある集合住宅にジョン・カサヴェテスが甦ったかのようでもありました。